武田信豊(若狭武田氏)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
武田信豊とは、戦国時代の大名です。
若狭国守護であり、若狭武田氏7代当主として知られています。
信長の野望での武田信豊(若狭武田氏)
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
57 | 59 | 36 | 41 |
能力は戦国大名としては何とも物足りない感じですね。
父・武田元光に比べて武勇は勝っているものの、知略・政治はかなり劣っています。
この戦国時代にはもう一人、同姓同名の「武田信豊」がいますが、そちらと比べても勝るところが何ひとつ無い残念な能力。
ちなみにもう一人の「武田信豊」は甲斐武田氏の一門で、武田勝頼の従弟だった人物のことですね。
武田信豊(若狭武田氏)の来歴
武田信豊は永正11年(1514年)、若狭国守護であった武田元光の子として誕生しました。
その後、近江国守護・六角定頼の娘を妻に迎えています。
天文7年(1538年)、従弟の武田信孝を擁する粟屋元隆に勝利した前後か、もしくは天文8年(1539年)に父・元光から家督を譲られたと考えられているようです。
天文8年12月に伊豆守に任官。
しかし同族であった甲斐武田氏の武田晴信(武田信玄)が、若狭武田氏がこれまで代々任ぜられてきた大膳大夫に任じられてしまたっため、信豊は最後まで大膳大夫に任ぜられることはありませんでした。
家督継承後の信豊は、丹後国に出兵。
加佐郡を平定し、家臣の白井氏を郡代に配しています。
天文11年(1542年)には、義兄にあたる細川晴元の要請によって河内国の太平寺の三好長慶を攻撃。
しかしこれに敗北して有力武将の多くを失いました。
その後の天文21年(1552年)、三好長慶に追われた晴元を若狭にて庇護しており、連歌を興行しなどといわれています。
天文23年(1554年)、晴元の要請を受けて逸見昌経を丹波国に出兵させ、長慶の家臣・松永長頼と戦うも、これにも敗れました。
弘治2年(1556年)頃から、隠居の是非をめぐって嫡男・義統との争いが勃発し、家中が不安定になっていきます。
木下聡氏によると、信豊の隠居は義統ではなく、その弟であった信由に家督を譲るためのものであったために、嫡男であった義統が反発したとしているようです。
この渦中、信豊方に与し、信豊が信頼していた弟の信高が死去したことで劣勢となり、近江へと逃亡しました。
その後の永禄4年(1561年)、和議が成立し帰国します。
この頃のは信豊は出家し、紹真と号していたようです。
しかし、後を継いだ義統も永禄10年(1567年)に病死。
翌永禄11年(1568年)には内乱の続く若狭国を、隣国越前国の朝倉氏が平定。
その結果、義統の子・武田元明が朝倉氏によって一乗谷に連行されたため、若狭武田氏は事実上、若狭の支配権を喪失しました。
永禄12年(1569年)、里村紹巴が若狭を訪れた際に、連歌会や『源氏物語』の講釈会を催したとされています。
また元亀3年(1572年)、朝倉義景が若狭の寺院に出した安堵状の中に。武田氏の歴代当主に触れた文言の中で信豊だけを諱で記していることから、同年時点でも信豊が健在であった可能性が高い一方で、しかし政治的な活動はみられないため、晩年は若狭国内への影響力はほとんどない状態だったようです。
没年は分かっていません。
ただ、息子である義統の没年の異説とされる天正8年(1580年)4月8日は、信豊の死去の記事が誤って既に死去している義統の死去の記事として記された可能性を指摘する説もあるようで、それが正しければその頃まで生きていたのかもしれません。