武田元明【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
武田元明とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、若狭国の守護大名。
また若狭武田氏最後となる、第9代当主でもあります。
元明の代にて若狭武田氏は滅亡しましたが、元明の継嗣である武田義勝は、武田姓を憚って津川姓を称し、親族である京極高次に仕えたとされています。
信長の野望での武田元明
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
52 | 38 | 43 | 58 |
武田元明の能力は全体的に残念な評価なようです。
やはりお家を滅ぼした最後の当主は、とかくこのような能力になりがちですね。
しかし隣国である越前の朝倉義景の能力と比べれば、何と全ての能力においてそれを凌駕しています。
まあ五十歩百歩の似たり寄ったりの数値ではありますが。
武田元明の来歴
武田元明の生年は諸説あるようで、永禄5年(1562年)または天文21年(1552年)に、若狭武田氏の当主・武田義統の子として誕生しました。
母は室町幕府の12代将軍・足利義晴の娘。
幼名は孫犬丸。
父より「元」の一字を受けて(父・武田義統は当時武田義元と名乗ってた)元明と名乗りました。
永禄9年(1566年)、次期将軍を窺う足利義昭が若狭武田氏の保護を求めて若狭に動座してきます。
しかし義統に反発する被官たちが元明を擁立して反抗を始めたため、若狭武田氏は上洛することが出来ず、義昭は越前国の戦国大名・朝倉義景を頼ったとされています。
永禄10年(1567年)4月、父・義統が死去。
これにより元明が家督を継いで当主となったものの、国内の状況は不安定な状態が続いていました。
若狭武田氏といえば、かつて応仁の乱では副将を務めたほどの名家であったものの、この頃にはすでに衰退していたのです。
若狭国内において、若狭守護代・内藤氏の内藤筑前守は若狭天ヶ城や手筒山城(天筒山)に、有力被官であった逸見昌経(昌清)は高浜城に、粟屋勝久は国吉城(佐柿)に、熊谷直澄は大倉見城(井崎城)に割拠している有様で、それぞれ守護大名家の支配下より離反し、元明はこられを統制することはできませんでした。
こういった状況下の若狭をみて、永禄11年(1568年)、朝倉義景が若狭に侵攻を開始します。
朝倉勢は国吉城、手筒山城などを落とし、朝倉景恍(太郎左衛門)、半田又八郎らが兵を率いて後瀬山城を包囲。
元明は観念して自害しようとしましたが、和を講じると説得され、朝倉氏にとって元明は親族であるから身柄を保護するという名目のもと、一乗谷朝倉館に強制的に移住させられることになりました。
このことに関し、当時の若狭国内の状況や、元明と同族である甲斐国の武田信玄が朝倉義景に対し、義統の没後に元明を保護したことに謝意を示す書状を送っているようで、義景が元明を庇護する必要性があったとする見解も存在する一方、結果的に朝倉氏は元明を傀儡として若狭を間接支配したことは疑いようもないため、実質上若狭は朝倉氏の支配下に入りました。
このように若狭武田氏は朝倉氏に従属し、国人衆は朝倉氏に臣従しながら武田家再興の機会を待ちます。
もっとも既に武田氏より独立していた逸見氏や栗屋氏、熊谷氏などは従っていなかったようで、織田氏の勢力が近江国の湖西地域に及ぶと織田信長に通じることになります。
元亀元年(1570年)4月、織田信長が突如として越前に侵攻。
これに呼応した若狭の粟屋勝久や松宮玄蕃らは織田勢を迎え、越前口に案内しました。
信長は重臣であった丹羽長秀を守護に任じて若狭半国を与えたものの、この時は浅井氏の離反により撤退。
いわゆる金ヶ崎の戦いです。
ともあれ信長は当初のうち、元明を若狭国主として認めるつもりだったようでもありますが、しかし元明自身は越前国内に留め置かれたままでした。
いったんは退却した織田信長でしたが、その後の姉川の戦い等を経て、天正元年(1573年)8月には、朝倉義景を滅ぼします。
これにより元明は解放されましたが、しかし若狭一国は長秀に任せられることになり、若狭衆であった逸見昌経、内藤越前守、香川右衛門大夫、熊谷直澄、山県下野守、白井光胤、粟屋勝久、松宮玄蕃、寺井源左衛門、武藤景久といった面々は、はその与力とされました。
9月に若狭に戻った元明は、長秀の入った後瀬山城を避け、同じ遠敷郡小浜にある若狭神宮寺桜本坊に入ることになります。
天正9年(1581年)3月、大飯郡高浜城8,000石の領主である逸見昌経が死去。
信長はこれを後嗣なしとして逸見氏の所領を没収し、その一部である大飯郡佐分利の石山城3,000石(旧武藤領)を元明に与えています。
これにより元明は若狭衆の1人として、長秀の与力となりました。
そして天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発し、織田信長が横死。
これを若狭守護だった頃の勢力の回復する好機と考えた元明は、若狭国衆を糾合して蜂起し、明智光秀や義兄京極高次と通じて、近江へ侵攻して丹羽長秀の本城・佐和山城を陥落させました。
古都は順調し進むかと思われましたが、しかし、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗死すると、状況は一転してしまします。
状況不利と悟った元明は、7月19日、恭順の意を示そうと長秀のいる近江海津(貝津)に招かれ、海津の宝幢院で謀殺されました。
この死に関しては秀吉が殺したとも、自害したともいわれているようです。
享年21または31でした。