小早川秀秋【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

小早川秀秋とは安土桃山時代の大名です。
天下人・豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたり、その親族として重要な地位にあって、のちに小早川隆景と養子縁組して小早川家を継ぎました。
そして関ヶ原の戦いでは当初西軍でありながら東軍へと寝返り、徳川家康の躍進と豊臣家衰退のきっかけとなった人物としても知られています。
今回はそんな小早川秀秋を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での小早川秀秋
信長の野望・大志での能力値

信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 58 |
武勇 | 60 |
知略 | 67 |
内政 | 61 |
外政 | 65 |

能力的には可もなく不可もなく。
何とも平凡な能力値であります。
関ヶ原の趨勢を決し、歴史を大きく変えたであろう重要人物にしては、何とも特徴の無い能力ではありますが、しかし歴史を動かす人物が必ずしも偉人ではないということの、一つの証明かもしれません。
という管理人の個人的な感想は置いておいて、小早川秀秋を客観的に評価してみると、若い頃は芸道に通じ、また人格者であったとされているものの、早くに酒の味を覚えたことで堕落し、素行にも問題があったようで、育て親であった高台院(秀吉の正室)をも悩ませたそうな。
他にも借金多数で生活は派手なものだったらしく、また移封の際にはどこかの誰かと同じく年貢を持ち去るなど、色々やらかしてくれています。
そして最後はアルコール依存症により早世。
いわゆる病死にもかかわらず、秀秋の裏切りによって討ち死した大谷吉継の祟りであると噂される始末。
本来ならとんでもない能力値になっていても不思議ではないのですが、意外にまともな能力であることに驚きです。
事実、信長の野望のかつてのシリーズを眺めてみると、各能力が10~30台と、なかなか悲惨な能力となっていますからね。
信長の野望・新生での能力値

統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
62 | 53 | 64 | 62 |
新生での小早川秀秋も、可もなく不可もなくといった平凡な能力値。
とはいえ微妙に評価が下がっており、特に武勇が50台前半にまで落ち込んでいます。
秀秋は素地はあったと思われるので、性格や環境などがうまく揃っていれば、もっと良い意味で歴史に名を残したのかもしれませんね。
小早川秀秋の来歴
秀吉の後継者候補として

小早川秀秋は天正10年(1582年)に、木下家定の五男として近江国長浜にて誕生しました。
この年はちょうど本能寺の変があり、かの織田信長が世を去った年でもあります。
天正13年(1585年)には羽柴秀吉の養子となるのですが、あの秀吉は秀秋にとって、実は叔父に当たります。
というのも父・木下家定が秀吉正室である高台院の兄に当たるからなわけですね。
そのため秀秋は高台院によって育てられ、元服後は木下秀俊と、っして羽柴秀俊と名乗るようになっていきます。
当時、秀吉には実子がなく、秀秋はその後継者候補として天正17年(1589年)にわずか7歳にして元服。
丹波亀山城10万石を与えられることになります。
天正19年(1591年)には豊臣姓を名乗っており、文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任されました。
この頃の秀吉の後継者候補の第一は、関白・豊臣秀次でしたが、秀秋はそれに次ぐ存在として、今のうちに取り入ろうとする全国の大名たちによる接待をたびたび受けることになったのですが、接待といえばお酒。
秀秋は7歳にして、毎夜酒を飲む生活を送ることになってしまったのです。
小早川家へ
そんな後継者候補として持ち上げられてきた秀秋でしたが、文禄2年(1593年)に秀吉に実子・豊臣秀頼が誕生したことで、その人生は一変します。
秀吉配下の黒田孝高は、懇意にしていた小早川隆景に対し、秀秋を毛利輝元の養子にしてはどうかと持ち掛けます。
これに対し隆景は、自身の弟であった穂井田元清の嫡男・毛利秀元が毛利家の後継者であるとしつつ、代わりに小早川家の養子にもらい受けたいと申し出て、事実その通りになりました。
この時の秀秋は、これまでのような接待はなくなっていたものの、すでにアルコール依存症となっており、これが12歳の時であり、もはや酒のやめられない身体になってしまっていたのです。
そして文禄3年(1594年)、秀吉の命により秀俊は隆景と養子縁組をすることになります。
翌文禄4年(1595年)には、いわゆる秀次事件が発生し、秀秋も連座して羽柴家の一門として領していた丹波亀山領10万石を改易されてしまいます。
しかし養子縁組していた隆景が備後国三原へ隠居したことにより、その所領を秀秋が相続。
小早川領30万7千石を得て九州の筑前国主となったのでした。
慶長2年(1597年)2月21日、いわゆる朝鮮出兵の中で秀秋もまた、朝鮮半島へ渡海することになります。
その在陣中、それまで名乗っていた秀俊から秀秋へと改名しており、ここで初めて「小早川秀秋」と名乗ることになりました。
朝鮮に渡海していた秀秋でしたが、秀吉より帰国の要請を受け、帰ってみると越前北ノ庄15万石への減封転封命令が待っており、秀秋は多くの家臣を解雇せざるを得なくなってしまいます。
そして慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去。
その遺命により、慶長4年には筑前・筑後に復領した上で、所領高も59万石と大幅に加増されました。
関ヶ原の戦い

秀吉死後の、慶長5年(1600年)、台頭してきた徳川家康と、それに対する石田三成らの間で関ヶ原の戦いが勃発しました。
秀秋は西軍として参陣し、伏見城の戦いでは東軍と戦い、これを攻略しています。
そして関ヶ原本戦の前日である9月14日、突如として1万5,000もの軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山城に伊藤盛正を追い出した上で、入城を果たしました。
そして翌日、関ヶ原の戦いが開始されます。
激戦の中、しかし秀秋は傍観に徹しました。
この時、すでに家康の調略を受けていた秀秋でしたが、なかなか軍を動かさず、家康を苛立たせ、ついには鉄砲を撃ちかけたという逸話も残っていますが、恐らく後世の創作であろうともいわれています。
ともあれ秀秋は、最終的には裏切りを決意し、松尾山を下って眼下に陣を構えていた大谷吉継隊へと襲いかかりました。
もっとも秀秋配下でこの離反を承服できなかった松野重元などは、無断で撤退したそうです。

秀秋によって不意を突かれた大谷隊でしたが、しかしこの裏切りは知恵者の吉継によってある程度想定されており、寡兵ながらもよく耐え、平塚為広や戸田勝成らの奮戦もあって、小早川隊は幾度も押し返される始末だったといいます。
しかし秀秋の裏切りに呼応した脇坂安治や朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった面々の離反が相次いだことで、大谷吉継をはじめとする西軍の諸将は自刃、または討ち死にしていきました。
この時、自刃に及んだ吉継は、秀秋に対して呪いの言葉を残したともいわれています。
「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」
大谷隊の壊滅は西軍の敗北を決定的にし、同日の夕刻までには西軍は壊滅。
石田三成は逃亡し、秀秋はその後、三成居城の佐和山城攻略の任を受け持ちました。
秀秋への調略
小早川秀秋への調略は、当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって行われました。
その長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれた連書状が現存しているものの、高台院が西軍東軍のどちらを支持していたかは定かではなく、今後の研究が待たれるところです。
また西軍においても秀秋の動向を危険視しており、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職及び、上方2か国の加増を約束するという破格の条件によって秀秋を慰留したとする史料も残っていますが、これも定かな史料とはいえず、はっきりしたことは分かっていません。
ともあれ、裏切りにより勝利を得た秀秋でしたが、当時の風評は芳しいものではありませんでした。
豊臣家の養子として出世したにもかかわらずに裏切り、西軍を瓦解させた卑怯者ということで、やはり関ヶ原の戦いは豊臣家と徳川家の戦とみられていたのかもしれません。
早世
評判を落とした秀秋ではあったものの、戦後の論功行賞において備前・美作・備中東半にまたがる旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増され、移封となりました。
ちなみにこの時に、秀秋は旧領から年貢を持ち去っています。
秀秋のこの頃再び改名し、秀詮と名乗ったとされています。
そして慶長7年(1602年)10月18日。
小早川秀秋急死。
享年21。
関ヶ原の戦いから2年後のことでした。
この死に関しては、前述した大谷吉継の祟りだという噂もたちましたが、実際には幼い頃からの酒色による内臓疾患が死因であろうとされています。
そしてこのような若さで早世した秀秋には跡継ぎがおらず、小早川家は無嗣断絶により改易される運命となったのです。

小早川秀秋像

