信長の野望:武将能力列伝

朽木元綱【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

 朽木元綱とは戦国時代から江戸時代にかけての大名です。

 元網の名が世に出るのは二度あります。

 一つはかの織田信長が窮地に陥ったとされる、金ヶ崎の退き口
 もう一つは天下分け目の一大決戦・関ヶ原の戦い。

 この歴史上のイベントに元網は関わり、そして重要な役どころとなったことで知られています。

 今回はそんな朽木元綱を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

信長の野望での朽木元綱

信長の野望・大志での能力値

朽木元綱能力【信長の野望大志】©コーエーテクモゲームス
信長の野望 大志
朽木元網(くつき もとつな)
統率 42
武勇 52
知略 66
内政 65
外政 67


 これまた平凡な能力ですが、武よりはやや内政面に秀でた、といった能力ですね。

 シリーズを通して似たような能力となっており、評価は固定したままのようです。

朽木元綱の来歴

家督相続

 朽木元綱は天文18年(1549年)に誕生しました。

 父親は父は朽木晴綱で、母は飛鳥井雅綱の娘とされています。

 その父・晴綱が天文19年(1550年)4月21日に朽木氏の本家である高島氏の高島越中守と高島郡河上荘俵山で戦い、戦死。

 そのため元網が家督を継承することとなりました。

 この時なんと2歳。
 2歳で家督を継いだのは、かの筒井順慶だけではなかった、ということですね。

 天文22年(1553年)、三好長慶に京都を追われた室町幕府13代将軍・足利義輝を父に引き続き朽木谷に匿っています。

 永禄9年(1566年)には浅井長政が近江国高島郡へ侵攻。
 元網は人質を差し出すことで、浅井久政・長政父子と起請文を交わすことになります。
 が、これはすぐにも破棄してしまったそうです。

金ヶ崎の退き口

 そして元亀元年(1570年)。

 織田信長が越前国の朝倉義景を攻め、金ヶ崎城を落とすなど順調に進軍していったものの、ここで信長の義弟であった浅井長政が、突如として離反し、挟撃の構えをみせたたため、信長が窮地に陥りました。

金ヶ崎古戦場
金ヶ崎の戦い【信長の撤退戦、金ヶ崎の退き口】金ヶ崎の戦いとは、1570年(元亀元年)に起こった戦いです。織田信長が朝倉義景の支配する越前に侵攻するも挟み撃ちに遭い、窮地に陥った戦として有名な撤退戦であり、金ヶ崎の退き口、ともいわれています。戦国の三傑(三英傑)がそろって敗北した戦いとしても知られています...

 信長は即座に撤退を決め、元網の治める朽木谷を越えての京撤退を開始します。

 このいわゆる朽木越えにおいて、元網がどのような対応をするかで信長の運命が定まるといっても過言ではありませんでした。

 この時、信長配下の松永久秀は元網を説得。
 これを受け入れ、信長は無事に脱出することができたとされています。

 そして元網は信長に仕えることになるのですが、信長麾下として磯野員昌や、員昌の織田家追放後は津田信澄に配されるものの、あまり厚遇されることはありませんでした。

 そんな信長が本能寺にて横死したのちは豊臣秀吉に仕えることになり、小田原征伐などに参加しつつ、自らの本領であった高島郡9203石2斗を安堵されるに至りました。

 そして秀吉からはそれなりに信頼されてもいたのか、天正18年(1590年)には、秀吉より豊臣姓を下賜されてもいます。まあ、豊臣姓を下賜された人物は相当数いるのですが。

関ヶ原の戦い

 その豊臣秀吉が死去すると、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いが勃発します。

 元網は当初、西軍方として大谷吉継に従い、関ヶ原に着陣しました。

 しかし本戦が開始されると、まず小早川秀秋が西軍を裏切り、大谷隊に襲い掛かります。

 大谷隊はこれをよく防いだものの、秀秋の裏切りい呼応した脇坂安治や小川祐忠、赤座直保と共に元網もまた、西軍を離反。
 東軍へと寝返りました。

 これにより関ヶ原の戦いは東軍優位となって、元網らは勝利の立役者となったのです。

 しかし戦後、元網は2万石から9,550石に減封されるという憂き目にあってしまいます。

 これは元網の挙動に不審を覚えた徳川家康による処置ともいわれ、大名家としての家格は失うことになったのです。

 それでもどうにか本領を死守しつつ、豊臣家が大坂の陣で滅び去ったあとの世である元和2年(1616年)には剃髪。牧斎と号しました。

 そこからさらに江戸時代を生きて、寛永9年(1632年)、朽木谷において死去したといわれています。享年84

 元網死後の朽木家は、長男・宣綱が6470石を与えられ、残りは弟2人に分知されました。

 その宣綱の末弟の朽木稙綱は江戸幕府3代将軍・徳川家光の寵愛を受け、寛永13年8月13日(1636年9月12日)に加増を受けて1万石の大名となっており、庶家でありながら朽木宗家よりも家格が上になるという現象が起きてしまうことになるのです。