信長の野望:武将能力列伝

山県昌景【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

山県昌景能力【信長の野望大志】

 山県昌景とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣。武田家臣・飯富虎昌の弟。
 武田最強といわれた赤備えを率いた武田四天王の一人として知られています。

 今回はそんな山県昌景を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

山県昌景 (やまがた まさかげ)
桔梗紋
生年 1529年(享禄2年)
没年 1575年(天正3年6月29日)
改名 飯富源四郎⇒山県昌景
別名 三郎兵衛尉
家紋 桔梗(ききょう)
主君 武田信玄⇒武田勝頼
父:飯富道悦? 飯富源四郎?
兄弟 飯富虎昌 昌景
昌満 昌久 昌重 信継 娘(三枝守友室) 娘(相木昌朝室)娘(横田尹松室)
養子:定昌 太郎右衛門


信長の野望での山県昌景

信長の野望・大志での能力値

山県昌景能力【信長の野望大志】
信長の野望 大志
山県昌景(やまがた まさかげ)
統率 92
武勇 95
知略 82
内政 69
外政 82


 優秀な武田家臣団の中にあっても、トップレベルの能力です。

 軍事向きの能力である統率、武勇は90台。
 知略も80台と文句なし。

 なぜか外政も80台を誇っており、もっとも低い能力でも内政の69と、そこらの戦国大名よりも遥かに優秀な能力を有しています。

 これに総合力で匹敵し得る武田家臣といえば、真田昌幸くらいでしょうか。
 あの真田幸村でも、統率、武勇、知略の合計値で同値であり、しかし総合力ではまったく敵わない印象ですからね。

武田信玄家臣時代

山県昌景像山県昌景像

飯富源四郎

 山県昌景は1529年(享禄2年)に誕生しました。

 昌景の出自は飯富氏であり、当時の飯富一族は甲斐武田氏に仕えていたとされています。

 武田信虎家臣であった飯富道悦の代である1515年(永正12年)に、大井信達との合戦において道悦の子息である源四郎なる人物が討死。

 この源四郎という名は昌景の仮名と一致することもあり、昌景や飯富虎昌の父に当たるのでは、と考えられているようです。

信玄に仕える

 昌景は初め、武田信玄の近習として仕えたといわれています。

 その信玄が信濃侵攻を開始すると、それが昌景にとっての初陣となり、神之峰城攻めでは一番乗りの功名を立て、1552年(天文21年)には侍大将に抜擢されました。

 兄・虎昌も猛将として知られていましたが、昌景もまた戦において目覚しい活躍をし、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われたそうです。

 1563年(永禄6年)には三郎兵衛尉を名乗り、その後も戦功を挙げ、300騎持ちの大将として譜代家老衆に列せられています。

 1564年(永禄7年)には飛騨国に侵攻。江馬氏や三木氏を降しました。

義信事件

 1565年(永禄8年)、信玄の嫡男・武田義信と、その傅役であった兄・飯富虎昌が信玄に対して謀反を画策。

 昌景は自身の身内が謀反に関わっていることを承知の上で、信玄に密告します。

 事件は発覚し、兄・虎昌は捕らえられ、その責任をとって自害しました。

 これにより信玄に信頼を得た昌景は、兄・虎昌が率いた武田の精強軍団である赤備えを引継ぎ、その姓を山県の名跡を与えられて、山県昌景と名を改めることになります。

各地に転戦

 昌景はその後も信玄に従い、西上野侵攻の際には箕輪城攻略戦で功を挙げ、さらには駿河侵攻、および北条氏との戦いにも参加しました。

 このように従軍する一方、信玄の側近としても活動していたようで、諸役免許や参陣命令、また自社支配等の武田氏朱印状奏者としての活動がみられ、美濃国の遠山氏や陸奥国(会津)の蘆名氏、三河国徳川氏といった遠方の国衆、また松尾小笠原氏や室賀氏、赤須氏などの信濃国衆や三枝氏、横田氏など武田家臣衆などの取次ぎを務めていたといわれています。

 1569年(永禄12年)には、駿河国の江尻城代に任命。

 江尻城は武田氏による駿河侵攻の後に築城された城で、徳川氏との最前線でもあったことから、重要な拠点でした。

遠江・三河侵攻

 1571年(元亀2年)、武田信玄は遠江・三河侵攻を開始。

 昌景はこれに従い、山家三方衆(作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏)ら奥三河の国衆を服属。

 菅沼定盈はこれに抵抗するも、定盈の居城であった大野田城を攻略し、敗退させます。

西上作戦

『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』 歌川芳虎画『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』 歌川芳虎画

 1572年(元亀3年)、武田信玄は織田信長討伐を目的とした大規模な遠征である西上作戦を開始。

 信玄はまず、山県昌景と秋山虎繁に兵3,000を預け、信長の同盟国であった三河の徳川家康に対して侵攻しました。

 昌景は従属した北三河の国人領主でる“山家三方衆”とも呼ばれる田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝、長篠城主・菅沼正貞に道案内をさせて浜松方面に進軍。

 井伊谷三人衆の一人であった鈴木重時の柿本城を攻撃し、逃走する重時を討ち果たして更に進軍し、遠江国の伊平城を落として信玄が包囲していた二俣城へと至り、本隊に合流します。

 その後、三方ヶ原の戦いが徳川家康との間に勃発。

 この時、崩れかかった山県勢を、信玄の子である武田勝頼が助けた、ともいわれています。

信玄の死

 1573年(元亀4年)、武田信玄は西上作戦半ばにして死去。

 昌景は信玄にその死に際し、自身の死を三年隠すことや、跡を継ぐ勝頼を補佐して欲しいと遺命を託されることとなり、馬場信春と共に重臣筆頭として、信玄死後の武田氏を託されました。

 しかし武田勝頼との折り合いは悪かったようで、疎まれたといわれています。

 勝頼はもともと武田家を継ぐ予定ではなく、諏訪氏を継いでいました。
 しかし義信事件で急遽嫡男になってしまったことから、その時点でまず他の家臣達との距離感があったとのではないかと考えられています。

 また昌景や他の重臣はみんな城代として他の地域に派遣されており、そもそもにして勝頼の傍にいなかったことも要因でした。
 そして逆に、勝頼が近くにいた家臣、例えば跡部勝資などを頼るようになったのは当然の流れであったといえるでしょう。

長篠の戦い

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)

 信玄の死によって西上作戦は頓挫し、武田軍は甲斐へと撤退。

 これにより窮地を脱した織田信長は息を吹き返し、越前の朝倉義景、近江の浅井長政を滅ぼして地盤を固め、また徳川家康も失った三河・遠江の領地回復に努めることになります。

 その一環として、家康は長篠城を奪還。
 これに対し武田勝頼は再び遠江・三河を得るために侵攻を開始し、1575年(天正3年)に長篠城を包囲しました。

 この時の昌景は、昌景なりに勝頼との距離感があることを承知していたようで、家康を吉田城に追い詰めるなど抜群の働きをし、功を示すなどして、その関係改善を図っていたようです。

 勝頼は吉田城攻略にこだわらず、転進して長篠城を目指し、これを包囲。

 これが織田・徳川連合軍と武田軍の一大合戦となった、長篠の戦いへと至る経緯となります。

 長篠城攻略に手間取る中、織田・徳川の援軍が到着。

 その大軍を前に、昌景や内藤昌豊、馬場信春、原昌胤、小山田信茂といった重臣が撤退を進言。

 しかし勝頼は長坂光堅や跡部勝資といった側近が決戦を主張したことを受けて、決戦を決意を固めたとされています。

 昌景はこの戦いにおいて、軍の中核を担ったとされ、山県隊は一番に攻撃を仕掛けたものの敗退。

 武田勢は総崩れとなり、多大な犠牲を出した上で撤退を余儀なくされたのです。

 昌景はこの武田勢の退却の際に、織田・徳川勢の追撃戦の中で討死したとされています。享年47でした。

山県昌景の人物像

 昌景は武田の重臣中の重臣であり、その名は内外に知れ渡っており、武田四天王や武田二十四将の一人としても数えられ、長篠の戦いでの首級の一覧では、その筆頭に上げられていたといいます。

 兄・虎昌から受け継いだ赤備えは山県隊に引き継がれ、その精強さから諸大名に畏怖され、武田軍団の代名詞ともなりました。
 この赤備えはのちに、井伊直政や真田信繁(幸村)に受け継がれることになるのです。

 武田家中にあって武勇に優れた昌景でしたが、その身体は非常に小柄で、身長は130~140cm程度であったとされ、体重も軽く痩せた小男といった風体の醜男であったともいわれています。

 飯富虎昌の弟とされている一方で、年齢差があることなどから、実は甥ではないか、という説もあるようです。

山県昌景の逸話

 川中島の戦いにおいて、上杉家猛将・鬼小島弥太郎と一騎打ちをしたことがあり、その最中に信玄の子であった義信が窮地に陥るのをみて、弥太郎に対して勝負を預けたいと申し出たところ弥太郎は快諾し、弥太郎のことを花も実もある勇士と賞賛したとされています。

 また信玄の弟であった一条信龍が山県隊の強さを尋ねたところ、戦の心構えについて述べ、いつも初陣のつもりで合戦に臨み、策を練って勝てる確信が無い限りは戦わないからであると、答えたそうです。

 飛騨攻めをした際、一匹の猿に導かれて温泉を見つけ、疲労していた軍の回復させたという言い伝えがあり、これが平湯温泉の開湯であったともいわれています。

山県昌景画像

山県昌景像『甲越勇将傳武田家廾四将』歌川国芳画山県昌景像『甲越勇将傳武田家廾四将』歌川国芳画