松平信康【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
松平信康とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男です。
母は関口親永の娘で今川義元の姪にあたる築山殿(瀬名姫)。
現在においても、信康自刃事件の謎が残ることで知られています。
信長の野望での松平信康
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
74 | 86 | 65 | 57 |
武勇に優れていたという逸話もあってか、武勇はかなり高めの86。
統率も70台と戦働きのできる能力ですね。
知略や政務に関しては評価できるような逸話は無いものの、それを踏まえれば親の七光りで評価してもらっている方でしょうか。
ともあれ十分に活躍できる武将であり、家康の嫡男として面目躍如、ですね。
松平信康の来歴
桶狭間の戦い
永禄2年(1559年)3月6日、松平信康は松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で誕生しました。
最初今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごすことになりますが、桶狭間の戦いが勃発し、家康が今川家に対して反旗を翻したことで、非常に危うい状態に置かれることになります。
しかし徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換によって、無事岡崎城に帰還を果たしました。
清州同盟
永禄5年(1562年)、家康と織田信長による清洲同盟が成立します。
織田家との関係により、永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と婚姻。
共に僅か9歳の形式の夫婦とはいうものの、岡崎城で暮らすことになりました。
そして同年6月に家康は浜松城に移ったことで、信康は岡崎城を譲られることになります。
さらに7月には元服し、信長より偏諱の「信」の字を与えられ、ここではじめて「信康」と名乗りました。
そして年を重ね、元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となったとされています。
戦場での活躍
天正元年(1573年)に、長篠城攻めで初陣を飾りました。
天正2年(1574年)、『松平甚助由緒書』によると、信康に付属された松平親宅が何度も諫言するも聞き入れなかったことを理由に役目を返上。さらには蟄居し、出家してしまいます。
天正3年(1575年)5月には、武田家との決戦である長篠の戦いが勃発。
信康は17歳で徳川軍の大将の一人として参加しました。
徳川家はその後も武田氏との戦いを継続させていき、そこで軍功を挙げ、勇猛さが注目されるようになっていきます。
特に知られているのが天正5年(1577年)8月の遠江国横須賀の戦いで、信康は退却時の殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったとされています。
天正6年(1577年)3月には小山城攻めにも参軍しました。
切腹
しかし天正7年(1579年)8月3日、家康が岡崎城を訪れた翌日、信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移されました。
その後、信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移され、9月15日に家康の命により切腹させられることになります。享年21。
信康の首は舅である信長の元に送られ、その後、若宮八幡宮に葬られました。
信康自刃事件
三河物語
松平信康といえば、家康の命によって切腹させられ、若くして果てたことで知られています。
これについては幕府成立後の所謂徳川史観による『三河物語』の内容が通説化しているようです。
では信康切腹の原因は何だったのか。
『三河物語』によると、織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪かったとされ、それが影響してか信康とも不和になっていきます。
そして天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託しました。
その手紙には信康と不仲であることや、築山殿は武田勝頼と内通している、といったことが記されていたとされています。
当然信長は使者の忠次に質しましたが、忠次は信康を全く庇わなかったようで、全てを事実と認めました。
この結果、信長は家康に信康の切腹を要求することになったのです。
こうした状況を受けて、家康はやむをえず信康の処断を決断。
8月29日、まず築山殿が二俣城への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害されました。
さらに9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じ、自刃することになるのです。
信康の不行状
では信康の切腹の原因となった不行状とはいかるものだったのか、ですね。
- 気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かったという。
- 領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張したとされる。
- 鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した(狩の際、僧侶に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てたため)。これに対して信康は後日、謝罪。
- 徳姫が産んだ子が二人とも女子だったので腹を立て、夫婦の仲が冷え切ってしまった。
主なものとして、上記のようなものが挙げられます。
またそれに関連して築山殿については、「家康が今川方を裏切り織田方に付いたため、父が詰め腹を切らさせられたことを恨み、家康をひどく憎んでいた。そして減敬という唐人の医者を甲斐から呼び寄せて愛人にして、密かに武田氏に通じた」というものがよく知られています。
とはいうものの、これらのうち特に減敬の逸話については築山殿を貶める中傷ではないか、という説もあるようです。
こういった要因は現在でもはっきりとせず、疑問の余地が相当にあるようで、実際に切腹を命じられた理由として、父・家康との不仲説や、派閥抗争説など、枚挙にいとまがないほどです。
松平信康の人物像
- 信康は武勇に優れた武将であった一方、粗暴な部分もあったとされています。また信康が話すのは戦のことばかり、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったともいわれているようです。
- 天正3年(1575年)、家康の小山城攻めの際、信康は諸軍を家康とともに指揮して勝頼も驚ろかせました。また小山城攻めを諦めて撤退する際、信康は殿軍を務めてこれを成功させ、家康から「まことの勇将なり。勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」と大いに褒められたことでも知られています。
- 勝頼の本陣間近までわずか一人の供を連れて偵察を行い、家康に決戦を進言し、その勇猛さを見せつけたこともあるようです。
- 天正7年8月前ごろには、家康の命令も聞かず、信長も軽視し、家臣にも意見が違うと厳しく当たるようになったともいわれています。