朝倉景紀【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
朝倉景紀とは、戦国時代の武将。越前朝倉家臣です。
朝倉家当主を務めた朝倉貞景(9代目当主)の四男であり、朝倉家の名将・朝倉宗滴の養子となった人物として知られています。
名前の「景紀」は、「かげとし」、「かげのり」、もしくは「かげただ」、と読むと考えられているようです。
今回はそんな朝倉景紀を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での朝倉景紀
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 64 |
武勇 | 59 |
知略 | 56 |
内政 | 56 |
外政 | 56 |
『信長の野望』では景紀の読みは「かげのり」になっています。
そのため一部では、ノリという愛称で親しまれているようです。
さてその能力値ですが、実に平凡です。
すべての能力の平均値は50台後半で、いいところもなければ悪いところも無し。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
62 | 64 | 51 | 59 |
新生になっても、やはり平均的な能力値。
少しだけ武勇の値が上がっています。
これはこれでいいのですが、父親はやはり優れた当主であった朝倉貞景であり、兄にはやはり文治政治家として知られる朝倉孝景がおり、果ては養父があの朝倉宗滴という面々に囲まれた中にあっては、少々物足りない能力かもしれません。
とはいえ過不足無しの能力なので、比較的安全地帯の城主をさせておくにはちょうどいいでしょう。
さてそんな景紀の人生を紐解いていきたいと思います。
朝倉宗滴の養子として各地を転戦
1505年(永正2年)に、朝倉貞景の四男として誕生。
兄弟では長男・孝景が、のちに貞景のあとを継ぎ、朝倉家10代当主となりました。
また、一族の重鎮であり名将であった朝倉宗滴の養子となり、これに育てられたといいます。
そのためか、宗滴に劣らず武勇に優れていた(にしては能力が平凡のような)とされ、各地に出兵し、転戦して活躍しました。
血縁も養子先の家も文句無し。
朝倉家の中ではまさに一門を代表する名門といって過言ではなかったわけです。
兄弟の一人だった景高なども、のちに失脚していますので、相対的にその存在感を増したことは疑いようもありません。
1527年には宗滴と共に京都に出陣。
これは時の室町幕府の将軍・足利義晴が京都奪還のために、当時の朝倉家当主・朝倉孝景へと上洛のための軍勢を要請し、それに応えたもので、景紀は宗滴と共に兵1万を率いて出兵しています。
上洛戦の川勝寺口の戦いにおいて、景紀は敵方である堺公方軍を撃退するなど勝利し、朝倉家の家格上昇に貢献しました。
また1531年の享禄の錯乱において、加賀国にも出兵しています。
敦賀郡司と大野郡司の確執
宗滴が敦賀郡司に就いていたこともあり、1527年に敦賀郡司を引き継ぐことになります。
そしてその郡司職は、1558年頃には嫡男・朝倉景垙に引き継がれました。
しかし郡司職を譲った後も、養父・宗滴がそうであったように、敦賀郡司を代表して軍事行動を行っていたようです。
1561年には朝倉軍総大将として逸見氏の叛乱を鎮圧するために、若狭に出兵。
1563年から1568年までの間には、粟屋勝久と戦い、刈田狼藉を行いました。
ところが1564年に事件が発生。
嫡男・景垙は敦賀郡司として加賀国に出兵していたのですが、同じく出兵していた大野郡司の朝倉景鏡と大将の座を巡り、争いが起きてしまうのです。
その結果、敗れた景垙は憤死(陣中で自害)するという事態となり、状況の悪化を防ぐために当時の当主であった朝倉義景が急遽総大将として出陣することになるなど、混乱が生じてしまいました。
朝倉家に不穏な影が差し始めたのが、まさにこの頃です。
この事件をきっかけに、大野郡司である朝倉景鏡との対立が激化することになってしまいます。
相手は父親が謀反して失脚し、越前から退去した後も居残って、まるで面従腹背的に成り上がる好機を狙っていたような、一筋縄ではいかない相手です。
また景鏡は景紀の兄・景高の嫡男であり、景垙とは従兄弟にあたる関係もあって、血縁的には同等であり、朝倉一門筆頭の座を争う要因ともなっていました。
この対立により、足利義昭が一乗谷を訪れた際には席次を巡り、伺候する際には一方が義昭のもとへと訪れれば一方は不参する始末であったとされています。
織田信長の侵攻
1570年になると、織田信長による越前侵攻が行われ、金ヶ崎城が攻略されてしまいます。
敦賀郡司職は、景垙の憤死により次男・朝倉景恒に引き継がれていましたが、金ヶ崎城を失陥したことで失脚し、朝倉一門筆頭は朝倉景鏡が占めることになりました。ψ(*`ー´)ψ ゥヶヶ
景紀は景垙が憤死した時点で自領に引き上げ、隠居していたのですが、越前に侵攻した信長によって敦賀郡司職は廃止されることになり、その後失意のうちに死去することになったそうです。
朝倉家の名門中の名門でありながら、その最期は悲しいものでした。
どうやら名門貴族的な景紀と、一度地に落ちかけた上で這い上がってきた景鏡とでは、そもそもにして勝負にならなかったのでしょう。
朝倉景紀の人物
各地を転戦し、宗滴に劣らぬ勇将として活躍した一方で、1560年に一乗谷で行われた連歌会の興行担当を務めたり、また1562年に行われた曲水宴の歌会に参加したりと、和歌や連歌にも通じた人物だったようで、文武両道の武将であったとされています。
2016年には景紀が埋葬された墓が福井県鯖江市川島町の専立寺境内にて発見され、これは朝倉一族の中でもその亡骸が葬られた墓所としては、初めてのものでした。
朝倉景紀 関係年表
1505年 朝倉貞景の四男とした誕生。
1527年 京都出兵。川勝寺口の戦いに勝利。
この頃、養父・宗滴より敦賀郡司を譲られる。
1531年 加賀出兵。
1558年 嫡男・景垙に敦賀郡司を譲る。
1560年 連歌会の興行担当を務める。
1561年 逸見氏の叛乱を鎮圧。
1562年 曲水宴の歌会に参加。
1563年 若狭への刈田狼藉。
1564年 景垙憤死。
1570年 金ヶ崎の戦い。
1572年 景紀死去。