朝倉景紀 ~朝倉宗滴の養子にして、敦賀郡司を務めた朝倉家の名門

朝倉景紀 ~朝倉宗滴の養子にして、敦賀郡司を務めた朝倉家の名門

三盛木瓜 朝倉景紀とは、戦国時代の武将。越前朝倉家臣。
 朝倉家当主を務めた朝倉貞景(9代目当主)の四男であり、朝倉家の名将・朝倉宗滴の養子となった人物として知られている。
 名前の「景紀」は、「かげとし」、「かげのり」、もしくは「かげただ」、と読むと考えられている。

 朝倉景紀(あさくら かげとし)
 生年  1505年(永正2年)
 没年  1572年(元亀3年)
 別名  孫九朗
 主君  朝倉孝景朝倉義景
 家紋  三盛木瓜(みつもりもっこう)
 親   父:朝倉貞景 母:斉藤利国娘
     養父:朝倉宗滴
 兄弟  孝景 景高 景郡 道郷 景延
     大成明玉 朝倉景職室(北殿)
     南陽尼寺良玉侍者 土岐頼武室
     鞍谷氏室
 子   朝倉景垙 朝倉景恒 福富秀勝室

朝倉景紀とは

由羅
由羅
「かげのり」って読んでしまいそうだけど、「かげとし」って読むんだね
その可能性が一番高い、というわけで、読み方に関しては諸説あるみたい
イリス
イリス

朝倉宗滴の養子として各地を転戦

 1505年(永正2年)に、朝倉貞景の四男として誕生。
 兄弟では長男・孝景が、のちに貞景のあとを継ぎ、朝倉家10代当主となった。

 また、一族の重鎮であり名将であった朝倉宗滴の養子となり、これに育てられたという。
 そのためか、宗滴に劣らず武勇に優れていたとされ、各地に出兵し、転戦して活躍した。

由羅
由羅
血縁も養子先の家も文句無し。朝倉家の中では名門といって過言じゃないね
兄弟の一人だった景高なども、のちに失脚しているから、相対的にその存在感を増したと思うよ
イリス
イリス
 1527年には宗滴と共に京都に出陣。
 これは時の室町幕府の将軍・足利義晴が京都奪還のために、当時の朝倉家当主・朝倉孝景へと上洛のための軍勢を要請し、それに応えたもので、景紀は宗滴と共に兵1万を率いて出兵している。
 上洛戦の川勝寺口の戦いにおいて、景紀は敵方である堺公方軍を撃退するなど勝利し、朝倉家の家格上昇に貢献した。

 また1531年の享禄の錯乱において、加賀に出兵している。

敦賀郡司と大野郡司の確執

 宗滴が敦賀郡司に就いていたこともあり、1527年に敦賀郡司を引き継ぐことになる。
 その郡司職は、1558年頃には嫡男・朝倉景垙に引き継がれた。

 しかし郡司職を譲った後も、養父・宗滴がそうであったように、敦賀郡司を代表して軍事行動を行っている。

 1561年には朝倉軍総大将として逸見氏の叛乱を鎮圧するために、若狭に出兵。
 1563年から1568年までの間には、粟屋勝久と戦い、刈田狼藉を行ったとされておる。

 ところが1564年に事件が発生。
 嫡男・景垙は敦賀郡司として加賀国に出兵したが、同じく出兵していた大野郡司の朝倉景鏡と大将の座を巡り、争いが起きてしまう。

 その結果、敗れた景垙は憤死(陣中で自害)するという事態となり、状況の悪化を防ぐために当時の当主であった朝倉義景が急遽総大将として出陣することになるなど、混乱が生じた。

由羅
由羅
朝倉家が混乱し始めた兆しとなった事件だよね
 この事件をきっかけに、大野郡司である朝倉景鏡との対立が激化することになる。
 景鏡は景紀の兄・景高の嫡男であり、景垙とは従兄弟にあたる関係もあって、血縁的には同等であり、朝倉一門筆頭の座を争う要因ともなった。

 この対立により、足利義昭が一乗谷を訪れた際には席次を巡り、伺候する際には一方が義昭のもとへと訪れれば一方は不参する始末であったという。

両者の関係は修正不可能なところまで行ってしまったみたい
イリス
イリス

織田信長の侵攻

 1570年になると、織田信長による越前侵攻が行われ、金ヶ崎城が攻略されてしまう。
 敦賀郡司職は、景垙の憤死により次男・景恒に引き継がれていたが、金ヶ崎城を失陥したことで失脚し、朝倉一門筆頭は朝倉景鏡が占めることになっていた。

 景紀は景垙が憤死した時点で自領に引き上げ、隠居していたが、越前に侵攻した信長によって敦賀郡司職は廃止されることになり、その後失意のうちに死去することになる。

由羅
由羅
せっかく一門では名門に生まれて、活躍もしていたのに、悲しい末路だよね
政敵であった景鏡の執念の方が強かったみたい。父親である景高は兄・孝景と対立して失脚し、景鏡もずっと肩身の狭い思いをしながらも機会を伺っていたのだろうから
イリス
イリス
由羅
由羅
臥薪嘗胆?
に、近いかもね
イリス
イリス

朝倉景紀の人物

 各地を転戦し、宗滴に劣らぬ勇将として活躍した一方で、1560年に一乗谷で行われた連歌会の興行担当を務めたり、また1562年に行われた曲水宴の歌会に参加したりと、和歌や連歌にも通じた人物だったようで、文武両道の武将であったとされている。

 2016年には景紀が埋葬された墓が福井県鯖江市川島町の専立寺境内にて発見され、これは朝倉一族の中でもその亡骸が葬られた墓所としては、初めてのものであった。

朝倉景紀 関係年表

 1505年 朝倉貞景の四男とした誕生。
 1527年 京都出兵。川勝寺口の戦いに勝利。
     この頃、養父・宗滴より敦賀郡司を譲られる。
 1531年 加賀出兵。
 1558年 嫡男・景垙に敦賀郡司を譲る。
 1560年 連歌会の興行担当を務める。
 1561年 逸見氏の叛乱を鎮圧。
 1562年 曲水宴の歌会に参加。
 1563年 若狭への刈田狼藉。
 1564年 景垙憤死。
 1570年 金ヶ崎の戦い。
 1572年 景紀死去。