朝倉宗滴とは戦国時代の武将。越前朝倉氏三代(朝倉貞景・朝倉孝景・朝倉義景)に仕え、一族の宿老として当主を補佐し、自身は朝倉家総大将として各地を転戦してその武名を轟かせた名将。
本名は教景。しかし法名である宗滴の名の方がよく知られている。
大名物・九十九髪茄子を所有していたことでも著名。
![]() | |
生年 | 1477年(文明9年) |
没年 | 1555年(天文24年9月8日) |
改名 | 小太郎⇒教景⇒宗滴 |
別名 | 太郎左衛門尉 |
主君 | 朝倉氏景⇒朝倉貞景⇒朝倉孝景⇒朝倉義景 |
氏族 | 朝倉氏 |
家紋 | 三盛木瓜(みつもりもっこう) |
親 | 父:朝倉孝景(英林孝景) 母:桂室永昌大姉 |
兄弟 | 氏景 景明 孫四郎 景総 教景(以千宗勝) 時景(景親) 景儀 教景(宗滴) |
妻 | 朝倉景冬娘 |
子 | 蒲庵古渓 養子:景紀 |
朝倉宗滴とは










誕生から敦賀郡司まで
朝倉家の嫡男として
朝倉宗滴は1477年(文明9年)、朝倉(英林)孝景の末子(八男)として誕生した。










朝倉家一門ではその名前を名乗る際に、「景」の字が使用されるが、嫡流はこの「景」の字を下につけるもので、それ以外の一門の人物は上につけるという慣習があった。
宗滴の諱である「教景」はその慣習に則っており、そのため嫡男として遇されていたとも考えられている。






しかし父・孝景は1481年(文明13年)に死去。
朝倉宗滴はこの時4歳。
年齢的にも家督を継ぐことは不可能であり、その地位は兄である氏景が継ぐことになった。





朝倉景豊の謀反
1503年(文亀3年)、敦賀郡司であった一門の朝倉景豊が謀反を画策する。








朝倉景豊の姉妹は朝倉宗滴を初め、堀江景実、鳥羽景富、青蓮華近江守ら朝倉一族に嫁いでいたといわれている。








朝倉景総には教景(孝景五男)という弟がいたが、景総自身が庶子であったため、異母弟の教景の下座に置かれるという苦渋を舐めていた。
これを恨みに思った景総は、1484年(文明16年)に相撲場にて弟・教景を殺害してしまう。








景総が教景を殺害したことで、教景の養父で朝倉一族の重臣であった朝倉光玖は激怒。
景総は光玖の怒りの前に剃髪して許しを乞い、後に両者は和解して景総は一乗谷に出仕し、一門の武将として活躍するようになる。




景豊にとっての義理の父親である景総は、義兄弟の力を借りて朝倉宗家に謀叛を起こすよう唆し、景豊もこの企てに同意することになる。
この企てには当然、宗滴にも声がかけられることになった。










しかしこの時朝倉宗家の支配は確立しており、体制は磐石となっていた。
下克上は容易でないと判断した朝倉宗滴は、最終的に裏切りを回避し、逆に景豊の謀反を貞景に密告することになる。
これによって景豊は失脚し、宗滴はその功によって敦賀郡司に任命されることになった。
以降、朝倉宗滴は朝倉宗家を支える存在になっていく。








九頭竜川の戦い

《九頭竜川》
1506年(永正3年)、本泉寺住持蓮悟が檄文を発し、加賀の一向一揆が越前へと侵攻を開始した。
これは越前で起きた一向一揆に加勢する形で、加賀・能登・越中の一向一揆が越前へと侵入したものである。




越前国を支配する朝倉家はこれを迎撃するために出陣。
この時、朝倉宗滴は他の門徒と朝倉家による連合軍を率い、宗滴は総大将として九頭竜川にて対峙した。
朝倉勢8,000~16,000といわれている一方で、一揆群30万。




多勢に無勢な状況ではあったが、宗滴は機先を制するため、夜半に渡河して一揆軍を奇襲。
これが功を奏して一揆側は敗退。
この戦いを契機にして、朝倉宗滴はその武名を轟かすことになったのである。

各地への転戦


1517年(永正14年)、宗滴は若狭守護である武田氏の援軍として出陣。若狭の逸見氏及び丹後守護代・延永氏の反乱を鎮圧。
1525年(大永5年)には、六角氏に協力して浅井亮政を牽制。五ヶ月に渡って小谷城の一角に陣取り、浅井、六角との調停役を務めたという。






1527年(大永7年)には、幕府の要請で宗滴は養子の朝倉景紀と共に上洛。
川勝寺口の戦いにおいて勝利する。
ただしこの時援軍を要請した管領・細川高国と宗滴の間に不和があったようで、朝倉軍は撤退した。


朝倉宗滴の最期
1527年(大永7年)になると、宗滴は養子であった朝倉景紀に敦賀郡司を譲る。




1531年(享禄4年)には加賀の内紛である享禄の錯乱に介入。
そして1555年(天文24年7月21日)、加賀一向一揆を討つために、朝倉宗滴は越後の長尾景虎(上杉謙信)と呼応して加賀に出陣。一気に南郷・津葉・千足といった城を落とした。
しかしこの戦いの最中、朝倉宗滴は陣中において病に倒れ、朝倉景隆に総大将を任せて一乗谷に帰還。9月8日に病没した。享年79。
この朝倉宗滴の死は、1555年(天文24年)に行われた川中島第二次合戦において、上杉謙信・武田信玄の和睦という形で影響を与えることにもなっている。
朝倉宗滴の評価
朝倉宗滴は朝倉家当主ではなかったものの、実質上の当主といっても過言ではない存在であった。
宗滴は各地に転戦し、戦いに明け暮れるも周辺諸国は朝倉家に対して手出しできず、越前国自体には平和がもたらされ、その全盛期を築くことになる。
















後に朝倉家を滅ぼすことになる織田家について、宗滴はその当主であった織田信長について、朝倉宗滴が生前に評価しており、その才能を見抜いていたという逸話が残されている。
「今すぐ死んでも言い残すことはなが、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのわけではなく、織田上総介の行く末を見たかったのだ」
臨終の直前に、宗滴が残したとされる言葉である。
また、朝倉宗滴の家臣であった萩原八郎右衛門尉宗俊がまとめたとされる『朝倉宗滴話記』の中に、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という有名な記述がある。

朝倉宗滴 関係年表
1477年 朝倉孝景(英林孝景)の八男として誕生。
1481年 父・孝景死去。
1503年 朝倉景豊の謀反。
1506年 永正三年の一向一揆。
九頭竜川の戦いに勝利。
1517年 幕府の命により、若狭・丹後に出陣。
1525年 小谷城へ出陣。
1527年 足利義晴と管領・細川高国の要請で上洛。
川勝寺口の戦いに勝利。
1528年 細川高国との不和により、越前に帰国。
1531年 享禄の錯乱。加賀に出陣。
1548年 朝倉義景が当主になる。
1555年 加賀に出陣。同9月に病死。享年79。