堀江景忠とは戦国時代の武将であり、越前国の戦国大名・朝倉義景の家臣。
のちに謀反を企て越前国から逃れ、朝倉氏が滅ぶと戻って織田信長に仕えるも、恩賞への不満を知った信長に誅殺された人物である。
生年 | 不明 |
没年 | 1576年(天正4年) |
別名 | 中務丞 |
改名 | 堀江景忠⇒幸岩斎藤秀 |
主君 | 朝倉義景⇒織田信長 |
親 | 堀江景用 |
子 | 景実 |
堀江景忠とは






堀江氏
堀江景忠は堀江景用の子として誕生。生年は不明。
堀江氏は鎌倉時代より越前国の坂井郡河口荘堀江郷にあった有力国人であり、その後、越前守護となった斯波氏の家臣として勢力を誇ったものの、長禄合戦といった守護・斯波氏と守護代・甲斐氏との争いの中で、没落していったと考えられている。
本家筋は没落していったものの、傍流の系統は、逆に越前国で勢力を伸ばしていった朝倉氏に仕えることになたったという。






朝倉氏への謀反
加賀一向一揆
景忠は1555年(弘治元年)の、朝倉宗滴を総大将とした加賀一向一揆攻めに従軍し、功をあげたことが史料から確認することができる。
朝倉氏と加賀一向一揆との戦いは続き、1564年(永禄7年)にも、朝倉軍は加賀へと侵攻。
毎年のように、一向一揆との戦いを繰り返すことになる。


越前国の平和の終焉
その最中、堀江景忠は主君であった朝倉義景に対し、謀反を企てることになった。
これは朝倉貞景の代である1506年(永正3年)に、加賀や能登の一向一揆と九頭竜川にて一大決戦を行った九頭竜川の戦いより、約六十年振りの越前国内での戦乱であり、景忠はその平和を打ち破ることになったのである。
この堀江景忠の謀反の報が伝わったことで、勢いづいた一向一揆勢が越前へと来襲。
朝倉軍と激しい戦いとなったという。
一方で朝倉義景は、魚住景固や山崎吉家を大将として、堀江景忠に対して攻勢に出るも、景忠はこれをよく守り、勝敗はつかなかった。
結局、堀江景忠・景実父子を能登国へと亡命させることで、戦乱はいったん収まることになる。




朝倉景鏡の関与
堀江景忠の謀反について、朝倉景鏡による讒言が元で失脚させられ、それが謀反に繋がった、というものが一説には存在する。








堀江景忠の謀反より先に一向一揆の侵攻が始まっている点や、亡命後の景忠に本願寺顕如から感状が出されていることなどからして、やはり景忠が事前に一向一揆と通じていた可能性の方が高いとみられている。
朝倉氏の滅亡後
その後、景忠は幸岩斎藤秀と改名。
越前国は1573年(天正元年)に織田信長の侵攻により滅亡し、そして翌年に発生した越前一向一揆により、その支配するところとなっていた。
景忠はそんな越前へと戻ると、一揆方として杉津砦を任されるものの織田方に寝返り、逆に一揆勢を壊滅させて功を上げている。




信長はその景忠の功に対し、息子である景実へと加賀国の大聖寺の所領を与えた。
しかし景忠はそれを不満に思っていたようで、そのことが信長の耳に入り、1576年(天正4年)に誅殺されたといわれている。