信長の野望:武将能力列伝

魚住景固【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

魚住景固能力【信長の野望大志】

 魚住景固とは戦国時代の武将であり、朝倉氏の家臣。
 朝倉氏の滅亡後は織田氏に仕えるも、同じ朝倉氏旧臣であった富田長繁によって暗殺されたことで知られています。

 今回はそんな魚住景固を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

信長の野望での魚住景固

信長の野望・大志での能力値

魚住景固能力【信長の野望大志】
信長の野望 大志
魚住景固(うおずみ かげかた)
統率 29
武勇 34
知略 42
内政 65
外政 52


 あまりぱっとしない能力の中で、内政の数値のみが、どうにか朝倉氏で行政を担っていた内政官としても面目を保っています。

 同僚であった河合吉統とよく似た能力配分ではあるものの、やや劣化している感は否めません。

 一応これでも軍勢を率いて戦った記録もあるのですが、この能力では兵を率いてもらっても、敗北は必至ですね。
 素直に内政に従事してもらっていましょう。

魚住景固とは

 魚住景固とは越前の朝倉義景に仕えたマイナー家臣の一人なのですが、その名前が華々しく登場するのはやはり、朝倉家滅亡後の越前一向一揆の折でしょう。

 そのきっかけというか、原因というか、越前の狂犬が暴走した時の最初の犠牲者というか、そういったあたりで知られている人物です。

 何とも残念な覚えられ方をしてしまう景固ですが、朝倉家臣時代もしっかりと活躍しています。

朝倉氏家臣時代

魚住景貞

 魚住景固は1528年(享禄元年)に誕生しました。
 父親は魚住景栄という人物です。

 魚住氏は曽祖父である魚住景貞はもともと播磨国の赤松氏に仕えていたのですが、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、のちに朝倉敏景に仕えることになったといわれています。

赤松氏と魚住氏
魚住氏は赤松氏の庶流にあたります。そして赤松氏は室町時代では四職家の一つであり、名門中の名門でした。
ただ嘉吉の乱によりいったん没落してしまうものの、その後の応仁の乱を経て再興を果たしています。

 そんな赤松氏に仕えていた魚住氏が越前の朝倉氏に仕えるようになったのには理由があり、嘉吉の乱で赤松氏が没落した後、流浪した末に朝倉敏景に仕えるようになったといわれています。

 魚住景貞は外交面で活躍したとされていて、応仁の乱で重要な局面ともいえる、朝倉敏景の東軍寝返りを実現させた人物としても知られています。

 つまり、東軍の赤松氏の浦上則宗らは景貞の旧主であり、その縁が役に立った、というわけだですね。

 この頃の朝倉敏景はまだ斯波氏の家臣に過ぎませんでしたので、これに仕えたということは、はそういう縁があったのか、それとも敏景の才を見抜いていたのか。

 あまり知られてはいないことではありますが、歴史の転換点でさりげなく活躍していた人物だった、というわけです。

 ちなみに景固のひいお爺ちゃんに当たる人物ですね。

一乗谷奉行人として

 景固は朝倉義景に仕え、一乗谷奉行人として河合吉統らと共に内政面で活躍したとされています。

 眼病を患っていたとされるものの、戦場にも赴いており、堀江景忠の謀反の際には反乱鎮圧に出陣し、また織田氏との戦いでも活躍しました。

 余談ですが、朝倉家臣団では眼病を患っていたひとが多い気がするのは管理人だけでしょうか。
 富田勢源とか、前波吉継とか、そして景固か。

 それはともかく、1570年(元亀元年)の姉川の戦いでは命に反して軍を動かさず、1573年(天正元年)に朝倉氏の滅亡が迫ると、その寸前に織田信長に降伏。

 嫡男である彦三郎を人質として差し出し、織田勢を越前領内において道案内などをすることで、所領を安堵されています。

 賢いといえば賢い生き方ではありますが、こういうのはなかなか評価はされないのが世の常です。
 これでしっかりと家名存続できたならば別なのですが、その末路を思うと景固の場合、評価を上げる要素にはなり得なかったようです。

富田長繁と越前一向一揆

 朝倉氏が滅亡した翌年の1574年(天正2年)、越前国において朝倉氏の旧臣同士による内乱が勃発し、越前一向一揆へと拡大ます。

 主家滅亡後、越前国の守護代となっていた旧臣・桂田長俊は、同じく旧臣であり朝倉氏を共に裏切った富田長繁と対立し、長繁は一揆を扇動して桂田長俊を一乗谷に滅ぼすという事件が勃発しました。

 そののち、景固は長繁によって次男・彦四郎と共に招かれ、朝食の席において酒をすすめ、更には秘蔵の太刀を見せる、と誘った上で斬殺に及んだという。

 長繁は民に人気のあった景固を危険視して暗殺に及んだ、ともいわれています。

 翌日には嫡男の彦三朗も長繁によって討ち取られ、魚住氏は滅亡。

 しかし景固は温厚で仁者として知られ、領民に慕われた存在でした。
 それを何の理由も無く討ち取ったことで、富田長繁に従っていた一揆勢は離れ、逆に攻め立てられ、長繁もまた滅亡することになってしまうのです。

 こういった事情のため、景固の評価が難しくなってしまういったところでしょうか。

 決して裏切ったわけではないのですが、あっさりと朝倉家を見限って降伏するような人物でもあり、しかし民には慕われていたと。

 民を第一に考えたからこそ、無謀な戦に臨まずいち早く降伏した、ともとれますし、武将としてよりも行政官としての活躍が目立つひとであったから、そういう判断をしたとしても不思議じゃないかなったのかもしれません。

 主君よりも民を選んだことの良し悪しはさて置くとしても、降伏後も仁者として慕われていたことも事実です。

 しかしそれが裏目に出て、真っ先に狙われてしまったことは、もはや皮肉としかいいようがありませんが。