前波吉継(桂田長俊)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
前波吉継とは戦国時代の武将。
最初、越前朝倉氏に仕え、主家滅亡後は織田氏に仕えました。
改名後の桂田長俊の名前でも知られています。
今回はそんな前波吉継を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
生年 | 不詳 |
没年 | 1574年(天正2年1月19日) |
別名 | 桂田長俊(かつらだ ながとし) |
主君 | 朝倉義景⇒織田信長 |
親 | 父:前波景定 |
兄弟 | 景当 |
子 | 新七郎 |
信長の野望での前波吉継(桂田長俊)
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 29 |
武勇 | 38 |
知略 | 63 |
内政 | 54 |
外政 | 58 |
吉継本人には申し訳ないのですが、意外に高いな、というのが管理人の印象です。
これで? と思われないでもないのですが、越前を掌握後、さんざん悪政をして民心を失い、『信長公記』などにぼろくそ書かれているような政治手腕しか持ち合わせていなかったにも関わらず、何と内政54!
これはかの主君、朝倉義景とたった4しか変わらない数値なのです。
軍事に関してはともかく、内政に関してはそこそこの評価であった義景と、明らかに民に嫌われる政を行った吉継がほぼ同じ能力というのは如何なることなのか。
まあ李儒のように、悪政を行ったけど政治力がそこそこ高い、腹黒軍師のような存在もいましたので、悪政をした=能力が低い、というわけではないのかもしれませんが。
しかし解せぬ……。( ̄へ ̄; ムムム
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
34 | 43 | 68 | 58 |
新生では前作に比べ、全体的に評価が微増しています。
知略などは63→68まで上昇し、70まであとちょっと、という水準に至っています。
武勇も何故か上昇していますね。
ともあれそんな前波吉継が、いかなる事跡を残したのか、紐解いていきましょう。
朝倉家の奉行衆として
父親は前波景定で、その次男として誕生しました。生年は不明。
兄に前波景当がいます。
前波氏の嫡流となる当主は、これまでずっと「吉」の字を通字として使用していたのですが、吉継の父・景定やその子の景当などは、朝倉家の通字である「景」を拝領して用いていました。
吉継は庶流だったこともあり、「吉」の字をそのまま使っていたようです。
前波氏は朝倉氏に仕えた家臣の家系であり、直臣の中では筆頭の家柄でした。
吉継は朝倉義景に仕え、奉行衆として活躍します。
次男という立ち位置ではあったものの、嫡男であった兄・景当が1570年(元亀元年)の志賀の陣における堅田の戦いにおいて、坂井政尚を討ち取るなど功績を挙げるものの自身も戦死。
そのため吉継が家督を相続することになります。
織田家への寝返り
主家である朝倉家と織田家との戦いが激しくなると、主君である朝倉義景は次々に家臣に裏切られ、ついには滅亡しました。
吉継もまたその中の一人で、真っ先に寝返った家臣であったとされています。
1572年(元亀3年)、近江国小谷にて朝倉・浅井連合軍と織田軍がにらみ合う中、吉継は織田信長の本陣に駆け込み、降伏しました。
その後遅れて富田長繁や毛屋猪介、戸田与次郎なども織田軍に寝返ったといわれています。
朝倉家の譜代の家臣であった吉継が裏切ったことについて、いくつかの理由が考えられているようです。
- 義景が鷹狩りをした際に遅惨してしまい、さらに下馬することなくその前を通ってしまい、勘当されたことを恨んだため。
- 吉継の嫡男が織田家に内通していると讒言され、義景の怒り買ってしまったため。
- 兄である景定の跡目を望んだことが、義景の勘気に触れてしまったため。
このように諸説あるのですが、はっきりとは分かっていません。
しかし吉継が裏切ったことは事実であり、そしてその降伏は信長に認められ、後の越前侵攻の際には道案内を務めて朝倉氏の滅亡に加担することになります。
越前守護代として
かつての主君であった朝倉義景は、最期は一門筆頭の朝倉景鏡にも裏切られ、自刃。
越前朝倉家はここに滅亡しました。
吉継はその功績を認められて、織田信長から越前の守護代に任じられることになります。
この時にかつての名前を捨てて、信長から一字をもらって「桂田長俊」としました。
ところがこの改名後、まもなくして失明。
義景の呪いが発動します。
更には僅かに遅れて織田に寝返り、その功績によって得た地位が長俊よりも低かったことを妬んだ富田長繁と対立。
長俊も長繁のことに対し、富田や与力の毛屋・増井の知行が過分であるとか、富田を府中に住まわせる(長繁は功績により府中領主となっていた)ことは無益などと訴えており、両者の対立は深まっていくことになります。
そして1574年(天正2年)、長繁は長俊の殺害を企て、土一揆を蜂起させることに成功。
この時、長繁は長俊の圧政に苦しむ民を扇動したといわれています。
この時蜂起した一揆の総勢、33,000人。
富田長繁は自ら総大将となって、長俊の拠る一乗谷に侵攻。
その大軍を前に長俊は為すすべなく討死し、その家族も捕縛されて母親や嫡男も殺害されました。
義景のたたりか
長俊は寝返ったことでより高い地位を得ることができたものの、すぐにも失明して一揆に攻め込まれ落命してしまったため、義景のたたりではないかと噂されたといわれています。
『朝倉記』によると「神明ノ御罰也」と書かれているほどです。
また『信長公記』には「大国の守護代として栄耀栄華に誇り、恣に働き、後輩に対しても無礼であった報い」とされています。
前波吉継 関係年表
1570年 兄・景当が志賀の陣で戦死。
兄の跡を継いで家督を相続。
1572年 織田信長に寝返る。
1573年 朝倉義景自刃。
朝倉家滅亡。
越前守護代に任命される。
名を桂田長俊と改名。
眼病を患い失明する。
1574年 富田長繁により土一揆蜂起。
一揆、一乗谷に侵攻。
長俊、討死。