前波吉継 ~神明の罰か、主家を裏切った越前守護代・桂田長俊

前波吉継 ~神明の罰か、主家を裏切った越前守護代・桂田長俊

 前波吉継とは戦国時代の武将。
 最初、越前朝倉氏に仕え、主家滅亡後は織田氏に仕えた。
 改名後の桂田長俊の名前でも知られている。

前波吉継(まえば よしつぐ)
生年不詳
没年1574年(天正2年1月19日)
別名桂田長俊(かつらだ ながとし)
主君朝倉義景織田信長
父:前波景定
兄弟景当
新七郎

前波吉継とは

由羅
由羅
この人ってあれだよね。朝倉家を真っ先に裏切ってその後釜に座ったのはいいけど、結局滅んじゃったっていう
うん。そうだよ。吉継に限らず、主君だった朝倉義景を裏切った面々はみんな不幸な最期を遂げたから、義景のたたりだとか言われたの
イリス
イリス
由羅
由羅
前波吉継はもちろんとして、ほぼ同時に裏切った富田長繁や、敗色濃厚になってから降伏した魚住固景、直接義景を自害に追い込んだ朝倉景鏡など、みんなすぐに死んじゃっているものね
吉継はそれに加えて、朝倉家滅亡後に眼病により失明とかしているから、余計に、だね
イリス
イリス

朝倉家の奉行衆として

 父親は前波景定で、その次男として誕生した。生年は不明。
 兄に前波景当がいる。

前波氏の嫡流となる当主は、これまでずっと「吉」の字を通字として使用していたんだけど、吉継の父・景定やその子の景当などは、朝倉家の通字である「景」を拝領して用いているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
吉継は庶流だったから、「吉」の字をそのまま使っていたんだね
 前波氏は朝倉氏に仕えた家臣の家系であり、直臣の中では筆頭の家柄だった。
 吉継は朝倉義景に仕え、奉行衆として活躍。

 次男という立ち位置ではあったものの、嫡男であった兄・景当が1570年(元亀元年)の志賀の陣における堅田の戦いにおいて、坂井政尚を討ち取るなど功績を挙げるものの自身も戦死し、そのため吉継が家督を相続することになる。

織田家への寝返り

 主家である朝倉家と織田家との戦いが激しくなると、主君である朝倉義景は次々に家臣に裏切られ、ついには滅亡した。
 吉継もまたその中の一人で真っ先に寝返った家臣である。

 1572年(元亀3年)、近江国小谷にて朝倉・浅井連合軍と織田軍がにらみ合う中、吉継は織田信長の本陣に駆け込み、降伏した。
 その後遅れて富田長繁や毛屋猪介、戸田与次郎なども織田軍に寝返ったという。

由羅
由羅
でもどうして吉継は義景を見限って、織田家に寝返ったの?
いくつか理由が考えられているみたいだよ
イリス
イリス
 吉継が突如寝返った理由として、

 ・義景が鷹狩りをした際に遅惨してしまい、さらに下馬することなくその前を通ってしまい、勘当されたことを恨んだため。
 ・吉継の嫡男が織田家に内通していると讒言され、義景の怒り買ってしまったため。
 ・兄である景定の跡目を望んだことが、義景の勘気に触れてしまったため。

こんな感じで諸説あるみたいだけど、はっきりとは分かっていないの
イリス
イリス
 しかし吉継が裏切ったことは事実であり、そしてその降伏は信長に認められ、後の越前侵攻の際には道案内を務めて朝倉氏の滅亡に加担することになる。

越前守護代として

 かつての主君であった朝倉義景は、最期は一門筆頭の朝倉景鏡にも裏切られ、自刃。
 越前朝倉家はここに滅亡する。

 吉継はその功績を認められて、信長から越前の守護代に任じられた。

 この時にかつての名前を捨てて、信長から一字をもらって「桂田長俊」と改名。

 ところがこの改名後、まもなくして失明してしまう。

由羅
由羅
早速、義景の呪いが発動?
たまたまだとは思うけど
イリス
イリス

 更には僅かに遅れて織田に寝返り、その功績によって得た地位が長俊よりも低かったことを妬んだ富田長繁と対立。
 長俊も長繁のことに対し、富田や与力の毛屋・増井の知行が過分であるとか、富田を府中に住まわせる(長繁は功績により府中領主となっていた)ことは無益などと訴えており、両者の対立は深まっていくことになる。

 そして1574年(天正2年)、長繁は長俊の殺害を企て、土一揆を蜂起させることに成功。
 この時、長繁は長俊の圧政に苦しむ民を扇動したという。

越前国をとりあえず任された長俊だったんだけど、あまりうまく統治はできていなかったみたい
イリス
イリス
由羅
由羅
一揆を扇動した富田長繁の方にも性格的な問題はあるとはいえ、長俊の方にも問題があったってことだよね。自業自得かな
 この時蜂起した一揆の総勢、33,000人。

 富田長繁は自ら総大将となって、長俊の拠る一乗谷に侵攻。

 その大軍を前に長俊は為すすべなく討死し、その家族も捕縛されて母親や嫡男も殺害された。

義景のたたりか

 長俊は寝返ったことでより高い地位を得ることができたものの、すぐに失明して一揆に攻め込まれ落命してしまったため、義景のたたりではないかと噂されたという。

 『朝倉記』によると「神明ノ御罰也」と書かれているよ
イリス
イリス
 また『信長公記』には「大国の守護代として栄耀栄華に誇り、恣に働き、後輩に対しても無礼であった報い」とされている。

前波吉継 関係年表

 1570年 兄・景当が志賀の陣で戦死。
     兄の跡を継いで家督を相続。
 1572年 織田信長に寝返る。
 1573年 朝倉義景自刃。
     朝倉家滅亡。
     越前守護代に任命される。
     名を桂田長俊と改名。
     眼病を患い失明する。
 1574年 富田長繁により土一揆蜂起。
     一揆、一乗谷に侵攻。
     長俊、討死。