今川氏真 ~国を滅ぼした暗君か、家名を残した文化人か

今川氏真 ~国を滅ぼした暗君か、家名を残した文化人か

 今川氏真とは戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、戦国大名、文化人。
 名門今川氏の12代当主であり、父親である今川義元桶狭間にて横死した後、領国である駿河を武田信玄徳川家康によって奪われ、大名としての今川家を滅亡させたとして知られる人物でもある。
 しかしその後は妻の早川殿の実家である後北条氏や徳川氏を頼り、その子孫は江戸幕府に仕えて今川家は存続することになる。

今川氏真(いまがわ うじざね)
足利二つ引両
生年1538年(天文7年)
没年1615年(慶長19年)
改名龍王丸⇒氏真⇒宗誾
別名彦五郎
家紋足利二つ引両(あしかがふたつひきりょう)
主君足利義輝⇒北条氏康⇒北条氏政⇒徳川家康
父:今川義元
母:定恵院
兄弟嶺松院
正室:早川殿(北条氏康の娘)
側室:庵原忠康の娘
吉良義定室 範以 品川高久 西尾安信 澄存

今川氏魔とは

由羅
由羅
今川氏真といえば、お家を潰した暗君、っていうイメージが強いよね
実際、父親である義元の代で最盛期となった今川家を、一代で潰してしまったわけだからね
イリス
イリス
由羅
由羅
やっぱり駄目駄目なひとだったの?
そうとも言えないよ。そもそも今川家滅亡の原因は、不運だったとはいえ桶狭間で敗死してしまった義元自身にもあるわけだし。武田信玄は不義理だし。家康はここぞとばかりにお家再興を目指すし。比較的頼りになったのは北条氏くらいだけど、その北条氏だって氏康が死んだら方針の転換をしてしまうくらいだから
イリス
イリス
由羅
由羅
氏真には荷が勝ち過ぎていた、と
戦国時代の大名としては、その能力に欠けていた可能性は、結果論ではるけれど否定はできないよ。ただ文化人としてはとても優れていたから、氏真にとっての戦いはこの戦国末期を生き残るこそにあったといえるかもしれないね
イリス
イリス

今川義元の後継者として

 今川氏真は1538年(天文7年)、義元の嫡子として誕生した。
 母親は武田信虎の娘である定恵院。

 1554年(天文23年)には北条氏康の娘である早川殿と婚姻し、いわゆる今川、武田、北条による甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が成立することになる。

 1558年(永禄元年)頃に、家督が譲られたとされている。

由羅
由羅
氏真って二十歳くらいで家督を継いでいたんだね
これは義元が上洛を狙って尾張方面に傾注するために、氏真に本国を任せる必要があったからではないかとされているよ
イリス
イリス
 そして1560年(永禄3年)。運命の桶狭間にて義元は織田信長に討たれ、氏真はその領国を名実共に引き継ぐことになった。

続く離反に混乱する今川家

桶狭間の戦い
『尾州桶狭間合戦』

松平元康の独立

 義元の死は今川家に動揺を与えた。
 桶狭間の戦いで多くの重臣も討死しており、義元の死を契機に領国にて国人の離反の動きが活発化していくことになる。

 氏真はこの動揺を抑えようと努力するが、西三河の地にて松平元康(徳川家康)が離反。
 氏真と元康は断交し、今川の領国はそのどちらにつくかで紛争が勃発。

 1562年(永禄5年)には元康と信長による清洲同盟が成立し、元康は完全に今川家から独立した。
 氏真も黙っていたわけでなく、牛久保城へ自ら軍を進めるも、元康の活躍により撃退されてしまう。

一宮の後詰、と言われる元康の奮戦の結果だね
イリス
イリス
 その後1564年(永禄7年)までに、今川家は三河における支配を完全に失うことになる。

遠江にも波及する混乱

 その後も次々と離反の動きが相次いだ。
 井伊谷の井伊直親や、飯尾連竜、堀越氏延、犬居の天野景泰など、遠州錯乱と呼ばれる混乱が続くことになる。

 その中で1562年(永禄5年)に井伊直親を誅殺し、1565年(永禄8年)に飯尾連竜を謀殺、連竜が城主を務めた曳馬城も攻撃し、1566年(永禄9年)にはこれを下し、反乱は一応の収束をみた。

由羅
由羅
ぐだぐだになってたんだね

加速する今川家の衰退

 混乱や反乱の中にあって、氏真は外交や内政によって、その収束を目指す努力も行っていたとされる。

 外交にあっては北条との同盟を維持しつつ、内政にあっては楽市や徳政令を実施したりと、かなり先んじた政策を実施したりもしていたという。

もっともただ徳政令など一見良いことにも思える政策も、いざ実行しようとすると新たな問題を発生させることにもなったの。結果的に今川家の衰退は続いていくことになるわけだね
イリス
イリス
由羅
由羅
一応氏真も頑張ったけど、流れは止められなかった、ということかあ
あと……よく氏真が暗君であるといわれる理由の一つとして、こういった時節にあって蹴鞠などの遊興に耽り、政務を省みなくなったことで、ますます領国は不安定化してしまい、滅亡へと至ったことが挙げられるよ
イリス
イリス

今川家の滅亡へ

甲相駿三国同盟の破棄

 今川家そのものが衰退する一方で、外交面においても状況が変化していく。

 甲相駿三国同盟の一角であった甲斐の武田家において、武田信玄の嫡男である武田義信が廃嫡されるという事件が発生した。
 義信には氏真の妹である嶺松院が嫁いでおり、義信が自害すると、氏真の要請で今川家へと還されることになり、ここに武田家との婚姻が解消されることになる。

 さらに信玄は氏真と敵対する信長から正室を迎え、さらには家康(元康から改名)と盟約を結んだことで、武田家と今川家との関係が緊迫していった。

由羅
由羅
この流れはどう見ても今川攻めをする気満々、という感じだよね
 そのため氏真は武田家と敵対する上杉家と和睦し、甲斐への塩止めなどの対抗措置を行ったとされる。

薩埵峠の戦い

 これらの事態によって、今川家は武田家と手切れとなり、同盟は解消。信玄による駿河侵攻が開始された。

 武田信玄が率いるは1万2000。これに対抗するために、氏真自身も出陣。重臣の庵原忠胤に1万5000の軍勢を与えて迎撃させ、自身は清見寺に陣を構えた。いわゆる薩埵峠の戦いである。

由羅
由羅
この時の氏真の動きはどうなの?
正確だった、と言えるよ。ちゃんと状況を判断し、薩埵峠にて武田軍を挟み撃ちにする戦術を立てたわけだから。この薩埵峠を越えないと武田軍は駿河を攻めることができないから、ここを今川軍が抑えて迎え撃ち、その背後を北条家の援軍に突いてもらうことで挟撃しようという計画だったわけで、成功すれば武田にしてみれば面白くない結果になっていたと思うよ
イリス
イリス
由羅
由羅
でも成功しなかった?
そんなことは寄せ手の信玄も分かっていることだからね。事前に手は打ってあった、ということだよ
イリス
イリス
 戦いが始まると、武田軍を相手に今川軍は奮戦した。
 今川方がこのまま持ち堪え、北条の援軍が間に合えば十分に勝機もあったが、すでに今川方はかなりの調略を受けており、駿河の有力国人21人が次々に内通し、この状況に身の危険を悟った氏真は陣を敷いた清見寺から脱出。
 これによって今川軍は総崩れとなり、武田軍は峠を突破して、そのまま駿府に突入した。

 氏真は駿府の北西にある賤機山城に篭城しようとしたが、武田軍の進軍は早く、先鋒の馬場信春が賤機山城を占拠し、今川軍の退路を断ってしまう。

 そのため重臣の朝比奈泰朝がいる掛川城へと、氏真はやむなく落ち延びることになった。

 氏真の正室であった早川殿(北条氏康の娘)も徒歩で脱出するほど悲惨な目に遭い、その父親である氏康は激怒したという。
 そのため氏康は嫡男氏政に命じて出兵し、今度は武田が薩埵峠で迎え撃つ形で第二次薩埵峠の戦いが行われたが、これは引き分けに終わっている。

 かくして駿府は陥落し、焼き払われる憂き目に遭った。

掛川城の戦い

 一方で、徳川家康も三河から遠江に侵攻し、次々に城を落として掛川城を包囲。
 ここで今川軍は意外な粘りをみせ、朝比奈泰朝らの奮戦もあって半年近くも持ち堪えた。

 戦いが長期化し、また第二次薩埵峠の戦いで武田と北条の戦いが膠着する中で、家康は氏真との和睦を模索し始めることになる。

 結果、氏真と家康、氏康の間で盟約が成立。
 武田方を駆逐した後、氏真を駿河の国主にする、というものであったが、これは履行されることはなかった。

 ともあれ掛川城は無血開城され、徳川と北条の間で同盟が成立。氏真は北条氏を頼って落ち延び、戦国大名としての今川家は滅亡した。

由羅
由羅
最後は粘ったけれど、結局戦国大名家としての今川家はここで終わったわけだね
そう。でも生き延びたことから、今川氏真という人物の人生はまだまだ続くから
イリス
イリス

北条から徳川へ

 妻の実家である北条を頼った氏真は、駿河の支配回復を狙って北条氏の後援を受けつつ出兵を繰り返すも、1571年(元亀2年)頃には大勢が決してしまい、最後まで氏真が駿河を回復させることはできませんでした。

 そして1571年(元亀2年10月)には北条氏康が死去。これによって後継者である氏政は武田家と和睦してしまう。
 そのため氏真は家康を頼ってその庇護下に入ることになった。

由羅
由羅
これって掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたってことだね?
そう考えられているよ。それに家康にとっても、かつての駿河の国主であった氏真を保護することは、領国支配の大義名分が立つため意義があったから、とされているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
つまり家康が氏真を受け入れたのは、そういう思惑もあったからなんだね
 その後氏真は家康に下にいながら、旅に出たり、また父親の仇である織田信長と会い、蹴鞠を披露したり、またある時は家康に従って従軍したりと、時代の流れに乗りながら生きていたとされる。
由羅
由羅
信長に蹴鞠を披露って……。信長は親の仇なのに?
まあ、そこが氏真の世渡り上手なところだね。誇りだけでは食べていけないから
イリス
イリス
 1591年(天正19年)頃には京都に住んでいたようで、和歌や連歌の会に参加したり、古典の書写などを行ったりと、文化人としての活動を行っていたとされる。
 その後氏真の次男が徳川秀忠に出仕。

 1612年(慶長17年)頃には品川に屋敷を与えられ、家族のいる江戸に移り住んだという。
 1613年(慶長18年)には正室である早川殿が死去。
 1615年(慶長19年)に、77歳にて死去した。

氏真と妻の早川殿の夫婦仲はとても良かったとされるよ。二人とも長生きしているし
イリス
イリス
由羅
由羅
実は甲相駿三国同盟で成立した三組の夫婦のうち、最後まで離縁しなかったのは氏真夫妻だけなんだよね
そうだよ
イリス
イリス

今川氏真の評価

 父である義元の代までは今川家は随一の大名であり、天下に一番近いところにいたとされているほどだったにも関わらず、それをたった一代で滅ぼしたという点において、その評価が著しく低くなるのは当然かもしれない。

 しかし義元が討死した時点で今川家はかなりの打撃を受けており、そんな状況下でも内政においても政策を行ったり、外交的にも活動したり、またいざ戦となれば自ら参加したりと、結果こそでなかったものの、行動自体は決して暗愚だけとも言い切れない面もある。状況が状況でなければ、無難に領国を治めることができていたかもしれない。

由羅
由羅
武将としてよりも文化人としての素養が高かった、というのは越前の朝倉義景なんかも同じだよね
戦国時代に生まれたからといって、武将に向いている、というわけでもないから。それに平和な時代になったら、世が世なら優れた武将であっても逆に役に立たないなんてことはよくあることだし
イリス
イリス
由羅
由羅
生まれてくる時代を……って感じだね
そう。だから氏真は戦国大名として生き残るよりも、個人として生き残ることを選んだの。この時代は戦国末期で天下統一が近づいていた時期でもあったから、生き残ることが自身の才能を活かすもっとも有効な手段になったわけだね
イリス
イリス
由羅
由羅
それに戦国時代だからといって、年がら年中、戦ばかりしていたわけじゃないものねえ
 一方で、今一つな大名としての評価ではなく、氏真個人の評価としてはなかなかのものがある。

 実は剣術の指南を剣聖・塚原卜伝に受けており、また凄腕の蹴鞠の技術も持っていたとされる。

 また教養も高かったようで、和歌なども詠み、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙に名を連ねているほどである。

 また、家臣や国人に散々離反されたりもしている一方で、大名家として今川家が滅んだ後も慕い続けた家臣も多く、個人としての魅力は高かったと思われる。
 特に正室である早川殿との仲は良く、両者共に長生きした。
 文武共に優れ、また魅力のある人物であったことが窺える。

由羅
由羅
氏真個人だけでみると、才能に満ち溢れた凄い人物なんだけどね。家臣や妻にに慕われていたことからも、人格的にも悪かったとは思えないし
それが一国の大名として評価されるかどうかはまた別もの、というところが時代の哀しいところかな
イリス
イリス

今川家のその後

 戦国時代が終わり、世は徳川の時代へと移り変わっていくが、氏真はその子孫を徳川家臣として残し、今川家を存続させることができた。
 これは甲相駿三国同盟の武田氏や北条氏、そして父の仇である織田氏ですらできなかったことであると踏まえれば、この中にあって最後に勝ち残ったのは今川氏真であった、といえるかもしれない。

今川家歴代当主

 第1代 今川国氏 1243年~1282年
 第2代 今川基氏 1259年~1323年
 第3代 今川範国 1295年~1384年
 第4代 今川範氏 1316年~1365年
 第5代 今川泰範 1334年~1409年
 第6代 今川範政 1364年~1433年
 第7代 今川範忠 1408年~1461年
 第8代 今川義忠 1436年~1476年
 第9代 今川氏親 1471年~1526年
 第10代 今川氏輝 1513年~1536年
 第11代 今川義元 1519年~1560年
 第12代 今川氏真 1538年~1615年

今川氏真 関係年表

 1538年 今川義元の嫡子として誕生。
 1554年 早川殿と結婚。
     甲相駿三国同盟成立。
 1560年 桶狭間の戦い。
     父・義元死去。
     松平元康離反。
 1561年 長尾景虎の関東侵攻に際し、北条家に援軍派遣。
 1562年 牛久保城に出兵するも、撃退される。
     井伊直親を誅殺。
 1564年 吉田城開城。
     今川の三河支配権を失う。
     曳馬城主の飯尾連竜が反乱。
 1565年 飯尾連竜を謀殺。
     義信事件。
 1566年 楽市や徳政令の実施。
 1567年 嶺松院の送還。
 1568年 甲駿同盟破棄。駿河侵攻。
     薩埵峠の戦い。駿府陥落。
 1569年 掛川城の無血開城。
     戦国大名としての今川家の滅亡。
 1571年 家康の庇護下に入る。
 1575年 上洛の旅に出る。織田信長と会見。
     長篠の戦い。三河に戻る。その後従軍。
 1576年 牧野城主になる。
 1577年 牧野城主解任。
 1598年 次男・品川高久が徳川秀忠に出仕。
 1607年 長男・範以が京都で死去。
 1611年 範以の遺児・範英が徳川秀忠に出仕。
 1612年 冷泉為満邸で行われた連歌会に出席。
     品川に屋敷を与えられる。江戸に移住。
 1613年 早川殿と死別。
 1615年 氏真死去。享年77。

今川氏真画像

今川氏真