佐久間盛重【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
佐久間盛重とは戦国時代の武将にして織田家家臣です。
桶狭間の戦いにて戦死しました。
別名大学允、もしくは大学助。
今回はそんな佐久間盛重を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での佐久間盛重
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 62 |
武勇 | 74 |
知略 | 62 |
内政 | 40 |
外政 | 48 |
能力は合戦向き。
武勇は74とそれなりではあり、統率と知略は60台と、少し物足りない数値です。
が、これはチート軍団織田家の中だからこそ、そんな風に思ってしまうだけで、他家の弱小戦国大名家臣団からすれば、十分に優秀な能力でしょう。
せめて武勇が70台の家臣が一人でもいれば……と、涙をのみながら戦っている方もきっと少ないないはずです。
そんな盛重ですが、桶狭間で討死せず、その後も活躍できていたら評価も変わっていたかもしれませんね。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
61 | 79 | 68 | 35 |
新生での佐久間盛重は武勇、知略の評価が上がっています。
武勇も79と、80まであと一歩。
戦場でだんだん使える武将になってきましたね。
佐久間盛重とは
佐久間盛重といえば織田家臣であり、織田信長の弟・織田信勝(織田信行)付きの家老です。
盛重の生年は分かっていません。
父親は佐久間盛経。
織田家臣で佐久間といえば、長らく家臣筆頭を務めた佐久間信盛が有名ですが、その信盛と同族です。
当初盛重は、信長の弟である信勝に仕えるものの、やがて信長と信勝の間で対立が表面化し、織田家の家臣の多くが信勝方につくことになります。
しかし盛重は信勝方につかず、信長方についてこれと戦い、柴田勝家らと争いました。
稲生の戦いでは名塚砦を堅持し、その際に信勝方の橋本十蔵を討ち取る功を上げています。
その後、永禄3年(1560年)に駿河の今川義元の尾張侵攻により、桶狭間の戦いが勃発。
その前哨戦となる丸根砦の戦いにおいて、今川方の松平元康の攻勢に遭い、砦は陥落。
盛重は討死しました。
『三河物語』によると落ち延びたことになっているのですが、その後の記録はなく、行方知れずになってしまっています。
佐久間盛重 画像
盛重よ、なんでこんなにグロい場面を描かれているのだヽ(´Д`;)ノアゥア…