水野信元【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

水野信元とは戦国時代の大名です。
水野忠政の次男。
今回はそんな水野信元を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での水野信元
信長の野望・大志での能力値

信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 60 |
武勇 | 55 |
知略 | 56 |
内政 | 60 |
外政 | 58 |

全能力50~60台と、平凡の中でもまだいい方の能力を有しています。
こういう能力配分ですと、得意なところは無いが苦手なところもないといった感じでしょうか。
個性がないように見えて、それが個性なのかもしれません。
信長の野望・新生での能力値

統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
57 | 51 | 61 | 61 |
新生での信元は相変わらずの平凡な能力値ですが、前作よりもやや武よりも文の方が評価されているようです。
といってもそこまで変わるものではありませんが。
大河ドラマ『どうする家康』でもそれなりの登場を果たしていますし、今後はまた評価が変わってくるのかもしれませんね。
水野信元とは
水野信元といば水野忠政の次男であり、信元の妹は松平広忠の正室です。
つまり信元は徳川家康の伯父に当たる人物なのです。
水野信元の生年は不詳。
1543年(天文2年)に、父・忠政が死去したことにより、水野家の家督を継承しました。
この水野家は、ちょうど尾張国と三河国の国境周辺を領していた一族です。
そしてこの頃は、織田家の織田信秀が三河侵攻を行っていた時期でした。
父親である忠政は、三河で勢力を拡大していた松平氏との友好関係構築のため、信元の妹である於大を、松平広忠へと嫁がせています。
ここで生まれたのが松平竹千代こと、のちの徳川家康でした。
しかし忠政の後を継いだ信元は、織田信秀に強力して松平氏と絶縁。
これにより広忠は、今川氏との関係を考慮して於大を離縁することになってしまいます。
織田家についた信元ではでしたが、1549年(天文18年)頃には織田家不利の情勢となり、織田家と今川家が和睦すると、その際に水野家は今川家の傘下に入ったと考えられています。
その後信秀が死去し、織田信長が家督を継承。
織田家は内紛状態となるも、知多半島では徐々に信長方につく勢力が増え、信元も1553年(天文23年)頃に、織田家に復帰したとされています。
以降は織田家方として戦い、1560年(永禄3年)には桶狭間の戦いが勃発。
この桶狭間こそ水野家の所領の真っただ中であり、織田方として戦ったと思われます。
それまで元信と、今川家にあった松平元康(徳川家康)は、織田家と今川家の代理戦争を呈すかのように戦っていたのですが、今川義元の死によって松平元康が独立。
家康と信長が清州同盟を結ぶ際の仲介役となりました。
その後、姉川の戦いや三方ヶ原の戦いなど、主要な戦に参戦。
さらに長島一向一揆征伐や、長篠の戦いにも参加しています。
しかし1576年(天正3年12月)、織田家の重臣・佐久間信盛の讒言によって武田勝頼の家臣・秋山信友との内通などを疑われ、信長の命によって家康に殺害されました。
当時、尾張や三河にまたぐ水野氏の勢力はなかなか無視できないものになっていたこともあり、信長がその排除に動いたとも考えられます。
ちなみに信長だけでなく、家康からみても目障りな存在になっていた可能性は否定できません。
こうして一度は滅亡した水野家ではあるものの、1580年(天正8年)に佐久間盛信を信長は追放。
有名な19ヶ条の折檻状の中にも、水野家について触れられていることが確認できます。
そして信長は元信が冤罪だったとし、家康配下となっていた信元の弟・水野忠重に旧領を与え、水野家は再興されることになったのでした。