信長の野望:武将能力列伝

織田信秀【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

織田信秀能力【信長の野望大志】

 織田信秀とは戦国時代の武将であり、尾張の戦国大名。
 織田信長の父であり、また信長に劣らない知勇を兼ね備えた武将として知られ、のちの信長が飛躍するための礎を作り上げました。

 今回はそんな織田信秀を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

織田信秀(おだ のぶひで)
織田瓜
生年 1511年(永正8年)
没年 1552年(天文21年3月3日)
別名 通称:三郎
渾名:器用の仁 尾張の虎
家紋 織田瓜(おだうり)
主君 織田達勝⇒織田信友
父:織田信定
母:含笑院殿(いぬゐ・織田良頼の娘)
兄弟 信秀 信康 信光 信実 信次 松平信定夫人(松平信定)室 長栄寺殿(牧長義室)岩村殿(遠山景任室のち秋山虎繁室?) 秋悦院殿(織田信安室)
正室:織田達勝の娘
継室:土田御前
側室:織田敏信の娘
養徳院殿(池田政秀の娘)
息子:信広 信長 信行 信治 信時 信与 秀孝 秀成 信照 長益 長利 信包
娘:お市の方(浅井長政のち柴田勝家室)お犬の方(佐治信方のち細川昭元室)犬山殿(織田信清室) 乃夫殿(津田元秀室) くらの方(大橋重長室) 苗木勘太郎室(苗木城主・遠山直廉室) 丹羽氏勝継室(丹羽氏勝室) 津田出雲守室(津田出雲守室) 斎藤秀龍側室(斎藤秀龍室) 信徳院(おとくの方、小林殿・小林城主牧長清室) 小田井殿・栄輪院殿(織田信直(織田藤左衛門家)室) 神保・稲葉夫人(神保氏張室のち稲葉貞通正室) 飯尾尚清夫人(飯尾尚清室)小幡殿(織田信成室)


信長の野望での織田信秀

信長の野望・大志での能力値

織田信秀能力【信長の野望大志】
信長の野望 大志
織田信秀(おだ のぶひで)
統率 87
武勇 70
知略 88
内政 91
外政 83


 非常に優秀な能力値。
 さすがはかの織田信長の父親であると、胸を張れるでしょう。

 どの能力も申し分はありませんが、もっとも評価されているのは内政であり、これは信長と同じです。
 そもそも能力自体が信長のものを、少しだけ低くした感じ(むしろ信長が信秀のパワーアップ版?)でしょうか。

 時代の若いシナリオでは、当然ながら信秀が当主をやっています。
 すぐ東に今川義元の勢力があって、なかなか厳しい状況ではありますが、早々に尾張統一を果たせば迎え撃つことも可能です。

 信長を待たずとも、天下は十分に狙えるでしょう。

家督相続から勢力拡大へ

清洲三奉行

 織田信秀は1511年(永正8年)に、尾張国の勝幡城主であり、清洲三奉行の一人であった織田信定の長男として誕生しました。

 生年に関して一説には1510年(永正7年)ではないか、ともいわれています。

 信秀の父・信定は、当時の尾張国守護代を務めていた織田氏の一族であり、尾張下四郡を支配しる織田大和守家、いわゆる清洲織田家に仕える清洲三奉行の一家の一つ、弾正忠家の当主としてありました。

 清州三奉行家は、それぞれ因幡守家、藤左衛門家、そして弾正忠家ですね。

 1526年(大永6年)から1527年(大永7年)の間に家督継承が行われたようで、信秀は弾正忠家当主となります。

 この家督継承後間も無くの1532年(天文元年)、主家であった織田達勝及び、清洲三奉行の一人であった織田藤左衛門との紛争が発生するも、講和に至っています。

拠点移動の戦略

 1538年(天文7年)、当時今川氏豊の居城であった那古野城を、信秀は奇策をもって奪取することに成功し、これまでの勝幡城から那古野城へと拠点を移しました。

 この那古野城奪取の時期については1532年(天文元年)ともいわれているのですが、翌1533年(天文2年)に尾張へと下向した山科言継と飛鳥井雅綱が勝幡城にて蹴鞠の指導をしており、この時に氏豊も招かれていることになっており、上記の1538年(天文7年)ともいわれています。

 信秀はその後も勢力を拡大し、1539年(天文8年)には古渡城を築城し、熱田を支配。

 拠点であった那古野城は1546年(天文15年)までに、嫡男であった織田信長に譲っています。

 拠点を譲った信秀は末森城を新たに築き、1548年(天文17年)に本拠を移動。

 このように信秀は次々に本拠となる場所を移動しており、当時の戦国大名がその拠点を生涯動かさないことが多かったことと比較して、珍しい戦略であったといえるでしょう。

 例えば甲斐の武田信玄なら躑躅ヶ崎館、越後の上杉謙信なら春日山城、安芸の毛利元就なら吉田郡山城、越前の朝倉義景なら一乗谷、みたいな感じで生涯拠点を移さない方が普通だったのです。

 ちなみにこの戦略は信長にも受け継がれています。
 信長の居城といえば安土城が思いつきますが、それ以外にも岐阜城、清州城、小牧山城なども挙げられます。

 たくさん思い浮かぶのは、それだけ信長が拠点を移動してきたという証拠なわけですね。

 信秀は勢力を伸ばし経済力を蓄え、それをもって朝廷にも献金し、従五位下に叙位され、備後守に任じられることになりました。

第一次小豆坂の戦い

 尾張の隣国である三河の松平清康は駿河の今川氏の支援を受け、1535年(天文4年)、守山まで侵攻。

 しかし世に言う守山崩れにより、清康は横死。

 これによって松平氏は混乱し、その隙を突く形で信秀は三河へと侵攻しました。

 1540年(天文9年)に、三河国の安祥城の攻略に成功します。

 信秀はここに長男であった織田信広(信長の庶兄)を配置し、守らせました。

 そして1542年(天文11年)、勢力を減衰させる松平氏に代わり、西三河の覇権を巡って今川氏と対立。

 松平氏を後援し、東三河から西三河へと勢力を拡大していた今川義元は、西三河の織田氏勢力を排除すべく、進軍を開始します。

 これに対し信秀も軍を率いて安祥城を発ち、両軍は岡崎城東南の小豆坂にて激突するに至りました。

 これが世に言う第一次小豆坂の戦いなのですが、この戦いは織田軍勝利に終わっています。

 しかしこの合戦については本当にそんな戦いが存在したのか、虚構ではないかとの説もあるようです。

大垣城奪取

 一方、美濃方面においては、斉藤道三によって尾張国に追放された美濃国守護の土岐頼芸及び、その子の頼次を信秀が庇護。

 また先々代の美濃国守護であった土岐頼純もまた追放されて越前国の朝倉孝景によって庇護されており、信秀は孝景と連携して美濃に出兵。

 斉藤道三と戦い、大垣城を手に入れることに成功しました。

勢力拡大の限界

 信秀は尾張国織田氏を代表する勢力となり、その権威は主家である織田大和家や守護の斯波氏をも上回り、事実上の尾張の戦国大名としての地位を確立していたとされます。

 しかし同時に主家へと臣従関係は維持しており、また同じ織田氏との間に紛争を繰り返しつつもそれらを徹底的に排除せず、そういった内憂を抱えた状態で国外の斉藤氏や松平氏、今川氏と戦うことには限界があったとされ、信秀には古い秩序を重んじる思考があったことがその要因で、そういった古さを脱して革新的な戦略に打って出るには、次代である信長の登場を待つことになったといえます。

織田氏の衰退

加納口の戦い

 1544年(天文13年)、信秀は越前の朝倉孝景や土岐頼芸と連合して美濃へと侵攻。

 斉藤道三の居城である稲葉山城山村の村々を焼き払いながら、町口にまで迫る勢いをみせました。

 しかし夕暮れが近づいた為、信秀はいったん兵を引き揚げようとしたが、そこを道三に反撃されて織田方は大敗を喫してしまいます。

 この時の被害は甚大で、5千余りの兵を失い、また信秀の弟であった織田信康や、織田信長の家老であった青山信昌なども戦死しています。

 これを加納口の戦いといい、一説では1547年(天文16年)ともされているようです。

内憂

 1548年(天文17年)になると、加納口の戦いで戦死した織田信康の子であった、犬山城主・織田信清が楽田城主・織田寛貞と共に謀反を起こすことになります。

 信秀はこれを鎮圧し、従属させることに成功。

 しかし同年中に斉藤道三が大垣城奪還の為に進軍し、これを救援すべく信秀は出陣するも、その留守を狙って織田信友が古渡城を攻撃。

 そのため信秀は戻ってこれと戦うことになるのですが、やがて和解することになりました。

 その一方で大垣城は道三に奪還されています。

第二次小豆坂の戦い

 こうした情勢の中、信秀は斉藤道三と和睦する道を選び、道三の娘・濃姫が、嫡男・信長に嫁ぐことになり、両家は縁戚関係となりました。

 そして同1548年(天文17年)、信秀は北への憂いを排除したことで、その視線を東に向けることとなり、三河の岡崎城攻略を企図するようになります。

 信秀は庶長子であった織田信広を先鋒として侵攻を開始。

 これに対して松平氏を支援する今川氏は太原雪斎を大将として救援を派遣し、小豆坂で合戦に至りました。

 この戦いで織田軍は大敗し、更には第三次安城合戦で安祥城をも失い、織田信広が捕虜となったことで、それまで人質としていた松平広忠の嫡男・竹千代との交換が図られ、織田氏は西三河での勢力を失うことになってしまいます。

 このような情勢の中、守護代であった大和守家との争うようになり、次第に厳しい状況に立たされていくことになっていくのです。

 この頃には信秀は病に伏せるようになり、更には1550年(天文19年)には今川氏が侵攻して水野氏が降伏し、翌年には鳴海城の山口教継が今川に調略されるなどして勢力を削がれていく中、1552年(天文21年)に末森城にて死去しました。享年44。

 このあと一歩というところで次第に劣勢に追い込まれ、状況が悪くなる中で病死、というパターンは戦国初期の越前の朝倉敏景の時と似ています。

 その後、嫡子が劣勢を跳ね返して領国を統一するあたりも同じです。

 ただ信長は尾張統一だけでなく、外征も積極的に行って勢力拡大をした一方で、朝倉氏の場合は外征はほとんど行わず、領国に平和と繁栄をもたらしはしましたが、最後は滅亡と、進んだ道は正反対になってしまいました。

織田信秀の人物像

 ・戦国史上で有名な織田信長の父であり、信秀もまた知勇に優れた武将であったとされています。後に信長が飛躍するにあたり、その地盤を築いた人物でした。

 ・那古野城の奪取にあたり、信秀は城主であった今川氏豊に接近し親しくなって油断させ、城内に泊り込むようになってから仮病を使って重体と偽り人を呼び寄せ、城の内外から騒ぎを起こして一気に乗っ取る、といった奇策を用いており、信秀が謀略に長けていたことや、その性格を知る逸話として知られています。

 ・嫡男の信長は尾張の大うつけとされて評判が悪かったものの、信秀は一貫して信長を後継者として定めており、また那古野城を譲るなど、両者の間には信頼関係があったことが窺えます。

 ・居城を次々に変える方針は、当時の戦国大名には珍しいものであり、戦略に合わせた臨機応変の対応が、勢力拡大に貢献した可能性は大であり、その方針は信長にも受け継がれることになっていきます。