太原雪斎【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
太原雪斎とは戦国時代の僧侶であり、武将。
今川家の家臣であり、当主・今川義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮し、今川家の全盛期を築き上げた人物として知られています。
今回はそんな太原雪斎を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での太原雪斎
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 91 |
武勇 | 61 |
知略 | 96 |
内政 | 96 |
外政 | 100 |
『信長の野望』に登場するチート坊主の一人。
甲相駿三国同盟などの功を繁栄されてか、外政能力は100と、間違いないく最強。
軍事面でもトップレベルの能力を有しています。
武勇のみが61と平凡ではありますが、他の能力が高いこともあって、十分に戦場に連れて行けます。
というか武勇以外は全て90オーバーの能力値。
この雪斎と主の義元が揃っている今川家になど、そりゃ適うはずがありません。
ただ雪斎以外の今川家臣の能力は、実は今一つ。
松平家を取り込んでいる今川家は、それこそ手が付けられないのですが、それ以外は意外に凡庸な家臣ばかりなのですね。
雪斎の死や義元の死、元康の離反の後、一気に瓦解していくのがよくわかります。
しかしこの時代の坊主たちは、どうしてこんなにチートなのか。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
90 | 60 | 96 | 95 |
前作とほぼ同じ評価、能力ですね。
大志では外政能力があったため、100を誇っていましたが、新生では政務に一本化されたため、やや落ち着いた印象です。
といっても95と、非常に優秀な能力ですが。
太原雪斎とは
太原雪斎といえば駿河の戦国大名・今川義元を支えた軍師と知られています。
全盛期の今川家といえば、今川義元に太原雪斎、あと寿桂尼って感じですね。
今川家が絡む大河ドラマなどでは、大抵この三人は揃い踏みします。
が、それ以外の家臣があまり顔を出さないところが哀しいところ。
それはともかく、雪斎は今川義元の教育係を務めており、それ以来の関係であったといえます。
当初雪斎は九英承菊と名乗っており、京都五山の建仁寺で修行をしていました。
若い頃からその才を知られ、当時の今川家当主であった今川氏親から駿河へと帰国し、今川家に仕えるよう要請があったのですが、二度までそれを断ったともいわれています
その後、今川家では当主が相次いで死去し、花倉の乱と呼ばれるお家騒動が勃発。
この時、義元の家督継承に尽力したのが雪斎であり、このことから義元は雪斎を重用するようになりました。
1546年(天文15年)には、尾張の織田信秀が三河国に介入し、松平広忠が今川家に救援を要請すると、雪斎はこれに応えて自ら大軍を率い、信秀と戦い第2次小豆坂の戦いでは勝利を収めています。
さらに織田信長の庶兄である織田信広を、三河安祥城にて捕らえ、織田家の人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)を今川家に取り戻すなど、功を重ねていきます。
こうして雪斎は政治だけでなく、軍事においても最高顧問として義元を支えるようになるのですが、その雪斎の最大の功労といえば、やはり甲相駿三国同盟でしょう。
いわゆる善得寺の会盟です。
今川家の周辺諸国には甲斐の武田氏、相模の後北条氏などがおり、時にはこれと戦い、時にはこれと結ぶなどしていましたが、1554年(天文23年)に武田晴信や北条氏康と交渉して三国間での婚姻同盟を成立させ、後顧の憂いを無くした今川家は、西に兵力を向けることが可能となったのです。
この善徳寺の会盟は、有名な戦国大名三人が一同に会したことで知られています。
とはいうものの、後世の創作の可能性は高いそうですが。
というのは、三国同盟を成立させるために、雪斎がお膳立てして駿河の善徳寺で三人が集まり、雪斎が説得した……というまさに名場面なのですが、厳密にみていくとあまり現実的ではないから、ということだからだそうです。
もっとも過去の大河ドラマである『武田信玄』などでもばっちり描かれていますし、三国志の桃園の誓いのように、雰囲気があってそれらしければいいのです!
それに三国同盟が結ばれたのは事実ですしね。
政治、軍事だけでなく外交にも力を発揮した雪斎でしたが、1555年(弘治元年)に死去しました。
まとめ
最後に天下をとる家康も、雪斎に師事したといわれています。
そしてそのおかげで家康も優秀になった……と、いかにも納得のいく説ではあるんのですが、実際に直接教えを受けたかどうかは不明だそうです。
とはいえ、その方が如何にも筋道だっており、物語としては面白いのですけどね。
雪斎は今川義元の右腕としてその才を如何無く発揮し、今川氏の全盛期を築くことになりました。
そのため雪斎のことを、黒衣の宰相や名補佐役、軍師などとも評されているようです。
しかし全盛期を築いた、ということは、その後に衰退が始まった、ともとることができます。
とはいえ義元自身も優秀でしたから、雪斎の死後もそう簡単に今川家が揺るぐことはありませんでした。
それでもその先の桶狭間の悲劇を思えば、
「もし雪斎が生きていれば、桶狭間の敗戦は無かっただろう」
ですね。