山崎吉家とは戦国時代の武将。越前朝倉氏家臣。
外交・軍事方面で活躍し、斜陽の朝倉家を最後まで支え、刀根坂の戦いにおいて戦死した人物である。
生年 | 不詳 |
没年 | 1573年(天正元年8月14日) |
主君 | 朝倉孝景⇒朝倉義景 |
親 | 父:山崎長吉 |
兄弟 | 吉家 吉延(吉清)半左衛門(了清) 珠宝坊 |
子 | 吉建 |
山崎吉家とは


















来歴
山崎吉家の生年は不明。
父親は山崎長吉であるといわれ、弟に山崎吉延などがおり、子に山崎吉建がいる。
1531年(享禄4年)、享禄の錯乱の際に朝倉氏は加賀に出兵。
この時に朝倉宗滴に従って出陣した記録が、史料に登場する初見である。
名将であった朝倉宗滴の元で加賀の一向一揆と戦った経験により、その軍略を磨いていった。
1555年(弘治元年)にも朝倉氏は加賀の一向一揆を攻めるべく出兵するも、その陣中において宗滴が病に倒れ、総大将を朝倉一門の朝倉景隆が引き継いだ際に共に吉家もまた景隆と共に出陣するなど、軍事面においても宗滴の後を継ぐ立ち位置にいたことが窺える。


吉家は宗滴が行っていた上杉氏との交渉を引き継ぎ、またその後、織田信長との対立が明確になっていくと、美濃の遠藤氏を通じて武田信玄とも交渉をもったとされている。
戦国時代でも有力な上杉氏や武田氏との交渉を任されるほどであり、朝倉氏の外交上で重要な働きを担っていくことになった。










堀江景忠謀反
時は戦国時代であったにも関わらず、一向一揆という外憂はあったものの、それ以外では比較的平和で安定していた越前国だったが、1567年(永禄10年)に堀江景忠による謀反が発生。
1506年(永正3年)の一向一揆との激戦である九頭竜川の戦い以降、外敵に侵入されることのなかった越前国の平和が破られた瞬間だった。
この謀反討伐にも魚住景固と共に、吉家は大将として派遣されることになる。
この戦いでは激戦ながらも決着がつかず、堀江景忠を能登に亡命させることで決着をみることになった。






金ヶ崎の戦い~姉川の戦い
1570年(元亀元年)に行われた金ヶ崎の戦いでは朝倉本隊第一陣として先発。




この戦いで織田信長は浅井氏の裏切りにあって挟み撃ちとなり、金ヶ崎の退き口と呼ばれる最悪の撤退戦をする羽目になるが、信長は無事に京へと撤退。
吉家は信長撤退後は総大将である朝倉景鏡に従って近江へと進み、更に美濃国境まで進軍。そこで垂井・赤坂周辺を放火し、長比・苅安尾といった城砦を修築して織田軍の来襲に備え、その後越前へと帰陣したとされている。
しかし直後に織田軍の来襲を許し、姉川の戦いが勃発。
吉家はこれは参加しておらず、総大将は一門の朝倉景建が務め、朝倉・浅井連合軍の敗北という結末となるのだった。
坂本の戦い
姉川の戦い以後、信長は摂津に進出。
これは三好三人衆を討つためであり、しかし手薄になった織田軍の背後を突く形で、再び朝倉軍は近江へと進軍。
吉家は一足早く、浅井長政の援軍要請に応えて小谷城に入り、山崎丸と呼ばれる砦を築いている。
その後朝倉本隊と合流。
吉家は朝倉景建と共に先陣の命を受け、織田軍と矛を交えた。
この坂本で行われた宇佐山城の戦いで吉家は勝利し、織田家の名だたる武将である森可成・織田信治・青地茂綱らを討ち取る戦功をあげている。




刀根坂の戦い
その後、朝倉と織田との戦いは徐々に朝倉方劣勢となり、1573年(元亀4年)になると、信長は近江に侵攻。小谷城を包囲する。
浅井氏の盟友である朝倉氏も、家中の反対を押し切って、義景自ら救援に出陣。
しかし前線である大嶽砦が織田軍の奇襲に遭って陥落すると、義景は撤退を決断。しかしこれを読んでいた信長によって徹底的な追撃戦が展開された。これが世に言う刀根坂の戦いであり、朝倉軍は大混乱に陥り、壊滅的な被害を被ることになる。
この際、吉家は殿軍を任され踏みとどまり、奮戦。織田方を押し返すなどの奮闘振りをみせるものの、ついには力尽きて戦死した。






この刀根坂の戦いによって朝倉家の敗北は決定的となり、その後時を置かずして主君であった朝倉義景の自害によって朝倉家は滅亡することになる。
山崎吉家 関係年表
1531年 享禄の錯乱。
朝倉軍の加賀出兵に従軍。
1555年 加賀一向一揆攻めに出陣。
1567年 堀江景忠の謀反。
魚住景固と共に大将として派遣。
1568年 足利義昭の朝倉館訪問。
年寄衆として挨拶。
1570年 金ヶ崎の戦いに出陣。
近江に出陣。
浅井氏の援軍として小谷に入城。
山崎丸を築く。
坂本、宇佐山城の戦いに勝利。
1572年 義景の近江出陣に12月まで従軍。
1573年 義景の敦賀出陣に従軍。
若狭に進出し、佐柿城に付け城を築く。
刀禰坂の戦い。
殿軍となり、戦死。