真柄直隆とは戦国時代の武将であり、越前朝倉氏の家臣。
大太刀として知られる太郎太刀を振るい、弟・直澄や息子・隆基と共に姉川の戦いで奮戦討死したことで知られている。
生年 | 1536年(天文5年) |
没年 | 1570年(元亀元年6月28日) |
別名 | 十郎左衛門 |
主君 | 朝倉義景 |
兄弟 | 直澄 |
子 | 隆基 |
真柄直隆とは








朝倉家の豪傑として
直隆の真柄氏は真柄荘の国人であり、堀江氏と同じく独立性の高い国人衆であったという。
そのため朝倉氏に対して臣従はしても、完全な家臣というわけではない。
直隆は1536年(天文5年)に生まれたとされている。
弟には真柄直澄、子には真柄隆基がおり、直隆も含めて誰もが猛将として知られていた。


非常に武勇に優れており、越前の刀匠であった千代鶴国安が鍛えたとされる五尺三寸(約175cm)もある大太刀である、通称・太郎太刀を愛刀として振るい、戦ったとされている。






人の背丈ほどもある太刀を振り回すことのできた直隆は、自身の体格も立派であったようで、身長2mを越える背丈に、体重250kgという巨漢だったと伝わる。
『朝倉始末記』によると、足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷を訪れた際に、その御前で大太刀を数十回と振り回したとされ、その豪傑ぶりを見せ付けたという。
姉川の戦い

《姉川大合戦之図》
1570年(元亀元年)、金ヶ崎の戦いで九死に一生を得た織田信長は、即座に朝倉・浅井両家に対して反撃に出ることになる。
そこで行われたのが世に言う姉川の戦いであり、直隆も直澄や隆基らと共に参戦した。
この戦いは朝倉・浅井連合軍と、織田・徳川連合軍との間に行われたのであるが、このとき徳川家康の家臣として参戦していたのちの徳川四天王・本多忠勝が単騎にて朝倉軍に向かって突撃を敢行。
これを迎え撃ったのが直隆で、豪傑と知られる直隆との一騎打ちにより、は忠勝はその勇名を馳せ、直隆はそれに一役買った形になったといえる。


しかし朝倉・浅井両軍は次第に打ち崩され、敗走。
直隆は味方の撤退を助けるために、今度は直隆自身が単騎で徳川軍に突撃し、12段構えの陣を8段まで突き破り、無双して戦線を支える大奮闘を見せたという。
だがついには力尽き、向坂三兄弟との戦いで覚悟を決め、「この首を取って武功とせよ」と告げ、敵に自身の首を献上して果てたといわれている。




姉川の戦いでは直隆の他に直澄や隆基らも戦死したが、真柄一族はその後も存続したとされている。
直隆が使用した太郎太刀は、愛知県名古屋市の熱田神宮宝物館に奉納されているが、一説によると、熱田神宮に奉納されているのは弟・直澄の次郎太刀であり、直隆の太郎太刀は白山比咩神社にあるものがそうであるともいわれているる。
真柄隆基
直隆の子であった真柄隆基も、父親譲りの猛将であり、怪力無双の持ち主であった。






姉川では直隆の死を知った後、隆基は引き返して徳川勢と戦い、徳川家家臣・青木一重の手にかかって討ち取られたという。