本多忠朝とは安土桃山時代から江戸時代にかけての武将であり、大名。
上総大多喜藩2代藩主であり、本多忠勝の次男として知られている。
大坂の陣において戦死した。
![]() | |
生年 | 1582年(天正10年) |
没年 | 1615年(慶長20年6月3日) |
別名 | 通称:内記 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 本多氏 |
家紋 | 本多葵(丸に立ち葵) |
親 | 父:本多忠勝 母:阿知和右衛門の娘 |
兄弟 | 小松姫(真田信之室) もり姫(奥平家昌室) 忠政 忠朝 |
妻 | 正室:一柳直盛の娘 |
子 | 政勝 千代(本多政朝正室) 娘(山口某室) 出雲守 |
本多忠朝とは




















略歴
出自
本多忠朝は1582年(天正10年)、徳川家康の重臣であった本多忠勝の次男として誕生した。
父譲りの勇将であったとされ、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては父同様、活躍したといわれている。
関ヶ原の戦い以後、その戦功により父・忠勝は伊勢桑名藩に移封。
これによりそれまで忠勝が領していた上総大多喜5万石を与えられ、上総大多喜藩2代藩主となった。




サン・フランシスコ号難破事故
1609年(慶長14年)、ドン・ロドリゴ一行のスペイン船サン・フランシスコ号が航海中に難破するという事故が発生する。
これにより50名余りが溺死し、300名余りが上総国岩和田村に上陸した。














この時忠朝は一行を保護及び歓待したとされ、ロドリゴの書いた「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中において、約40日間の滞在の間、村人は献身的に対応してくれたと書き記している。
忠朝もまた家臣と共にロドリゴを訪れ、幕府への報告や温情ある措置を約束したといいます。








1610年(慶長15年)、父・忠勝は死去する前に、忠勝は軍費として1万5000両を忠朝に譲るため、遺書を残している。
しかし忠朝は本多忠政の所領が広く費用も必要であろうことから、この金を受け取ろうとしなかったといわれ、兄・忠政もまた父・忠勝の遺言に背くわけにはいかないとして受け取らず、結果的に二人で折半することになったといわれている。


大坂の陣
1614年(慶長19年)、豊臣氏と徳川氏との間で大坂の陣が勃発。
忠朝は大坂冬の陣において活躍するも、酒を飲み不覚をとって、敵の猛攻の前に敗退した。






翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣において、忠朝は汚名返上を決意。
大坂の陣における最終戦となった天王寺・岡山の戦いにおいて先鋒となり、豊臣方の毛利勝永勢を相手に正面突撃をかけ、奮戦するも討死した。






死に際し、酒のために身をあやまる者を救おう、と言い残したとされ、その死後、酒封じの神として崇められるようになったといわれている。
本多忠朝画像
