本多忠朝【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
本多忠朝とは安土桃山時代から江戸時代にかけての武将であり、大名。
上総大多喜藩2代藩主であり、本多忠勝の次男として知られています。
大坂の陣において戦死しました。
今回はそんな本多忠朝を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
生年 | 1582年(天正10年) |
没年 | 1615年(慶長20年6月3日) |
別名 | 通称:内記 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 本多氏 |
家紋 | 本多葵(丸に立ち葵) |
親 | 父:本多忠勝 母:阿知和右衛門の娘 |
兄弟 | 小松姫(真田信之室) もり姫(奥平家昌室) 忠政 忠朝 |
妻 | 正室:一柳直盛の娘 |
子 | 政勝 千代(本多政朝正室) 娘(山口某室) 出雲守 |
信長の野望での本多忠朝
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 69 |
武勇 | 69 |
知略 | 57 |
内政 | 38 |
外政 | 44 |
あの本多忠勝の子供にしては、ちょっと物足りない能力ではあります。
しかし忠朝の場合、酒で失敗した挙句に敗退し、リベンジを図った次の戦いでも敗れ、討死を遂げてしまっていますので、この能力でも贔屓にしてもらった結果のような気もします。
他の名も無い武将が同じ失敗と敗戦、討死のコンボをかましていたら、それはもう悲惨な能力になっていたはずですからね。
それでも統率、武勇ともに69と、70台に乗せてあげないところに、贔屓しても限度がありますよという、そういう現実をみてしまうのは管理人だけでしょうか。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
67 | 74 | 59 | 37 |
新生での本多忠朝は、統率は評価が下がったものの、武勇は70台に乗せてきましたね。
やはり70台がひとつでもあると、何かしら秀でた感があって個性が出ます。
さてこの評価を今後も維持できるのか。
本多忠朝とは
本多忠朝といえば、あの戦国最強の本多忠勝の次男にあたる人物です。
父親である忠勝とても有名ですが、その子供たち中でも真田幸村(信繁)の兄である真田信之に嫁いだ小松姫などが、比較的知られています。
ちなみに忠朝は小松姫とは10歳近く、歳が離れていたりします。
それはともかく、では忠朝自身がどのような事跡を残した人物かというと……一言でいうならばお酒で失敗したひと。これに尽きます。
もちろん他でもちゃんと活躍しているのですが、どうしても後世ではやっぱりそのことが有名になってしまっていますね。
略歴
出自
本多忠朝は1582年(天正10年)、徳川家康の重臣であった本多忠勝の次男として誕生しました。
父譲りの勇将であったとされ、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては父同様、活躍したといわれています。
関ヶ原の戦い以後、その戦功により父・忠勝は伊勢桑名藩に移封。
これによりそれまで忠勝が領していた上総大多喜5万石を与えられ、上総大多喜藩2代藩主となりました。
誕生したのが天正10年ですから、ちょうどかの本能寺の変があった頃です。織田信長が明智光秀に討たれた事件ですね。
ということは戦国時代というよりは、安土桃山時代。
そして忠朝が活躍できる年齢になった頃には、もう江戸時代、っていうわけでした。
豊臣秀吉によっていったん天下統一がなされ、その秀吉の亡き後に起きた関ヶ原の戦いで、忠朝は活躍したとされています。
サン・フランシスコ号難破事故
1609年(慶長14年)、ドン・ロドリゴ一行のスペイン船サン・フランシスコ号が航海中に難破するという事故が発生します。
これにより50名余りが溺死し、300名余りが上総国岩和田村に上陸しました。
ドン・ロドリゴ。
聞き慣れない名前ではありますが、正確にはロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ。
エスパーニャの貴族です。
ちなみにエスパーニャはスペイン王国のことですね。
ドン・ロドリゴはフィリピン臨時総督在任中に、マニラで起こった日本人暴動に際して暴徒を日本に送還したり、貿易量の制限と暴徒の処罰を要求したりしています。
また徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた時には会見して、家康に友好的な書簡を送ったりしていたようです。
次期総督と交代のため召還命令を受けていたドン・ロドリゴは、ガレオン船3隻の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭遇してしまいます。
結果、ロドリゴの乗っていた旗艦「サン・フランシスコ」は難破して上総国大多喜藩領の岩和田村田尻の浜に漂着したのでした。
そしてこの時、ここで藩主を務めていたのが、本多忠朝だったというわけなのです。
この時忠朝は一行を保護及び歓待したとされ、ロドリゴの書いた「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中において、約40日間の滞在の間、村人は献身的に対応してくれたと書き記しています。
忠朝もまた家臣と共にロドリゴを訪れ、幕府への報告や温情ある措置を約束したそうです。
忠朝は当時まだ珍しかった外国人相手でも、誠意ある対応をしたわけであり、人助けは当然とはいえ、人格者であったことは間違いないのでしょう。
そんな忠朝の為人については、こんな逸話からも知ることができます。
1610年(慶長15年)、父・忠勝は死去する前に、忠勝は軍費として1万5000両を忠朝に譲るため、遺書を残しました。
しかし忠朝は兄・本多忠政の所領が広く費用も必要であろうことから、この金を受け取ろうとしなかったといわれ、忠政もまた父・忠勝の遺言に背くわけにはいかないとして受け取らず、結果的に二人で折半することになったといわれています。
頑固な兄弟ですが、忠朝らがどういう性格をしていたか、察することのできるエピソードではあるでしょう。
大坂の陣 酒のために身をあやまる
1614年(慶長19年)、豊臣氏と徳川氏との間で大坂の陣が勃発。
忠朝は大坂冬の陣において活躍するも、酒を飲み不覚をとって、敵の猛攻の前に敗退しました。
ここで酒による失敗談が出てきてしまうのですが、これには家康にも怒られたそうです。
翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣において、忠朝は汚名返上を決意。
大坂の陣における最終戦となった天王寺・岡山の戦いにおいて先鋒となり、豊臣方の毛利勝永勢を相手に正面突撃をかけ、奮戦するも討死しました。
忠朝も父親譲りの武将には違いなかったのでしょうが、相手が悪すぎました。
敵は毛利勝永。
真田信繁(幸村)がラスボスかと思いきや、もっとやばいのが目の前にいたという、そういう相手です。
火事場の無敵モード状態の勝永相手に、経験の少ない忠朝では相手にならなかったのでしょう。
死に際し、酒のために身をあやまる者を救おう、と言い残したとされ、その死後、酒封じの神として崇められるようになったといわれています。
何というか、今わの際まで酒の失敗を気にしていたということですね。
ある意味で損な、律儀な性格だったのかもしれません。