信長の野望:武将能力列伝

石川数正【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】

 石川数正とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。のちに大名。

 徳川家康の懐刀として活躍しましたが、豊臣秀吉が天下統一に乗り出すと、小牧・長久手の戦いを経て、突如出奔して秀吉に臣従し、家康を震撼させたことで知られています。

 今回はそんな石川数正を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!

石川数正(いしかわ かずまさ)
丸に竜胆
生年 1533年(天文2年)
没年 1593年(文禄2年)?
改名 助四郎(幼名) 数正⇒康輝⇒吉輝
別名 康昌 康輝 吉輝
通称:与七郎 伯耆守 出雲守
法号:箇三寺
主君 徳川家康⇒豊臣秀吉
氏族 石川氏
家紋 丸に竜胆
父:石川康正
母:松平重吉娘
兄弟 数正 女(松平家信室)
正室:内藤義清娘
康長 康勝 政令 康次

信長の野望での石川数正

信長の野望・新生での能力値

石川数正【信長の野望】©コーエーテクモゲームス
信長の野望 新生
石川数正(いしかわ かずまさ)
統率 70
武勇 62
知略 85
政務 82

 さすがは徳川家康の懐刀。
 武勇は徳川家臣団の中では平凡なものの、知略や政務は80台と優秀です。
 ここ最近のシリーズでは似たり寄ったりの能力値であり、現在では評価がほぼ固まっている感じですね。

 石川数正は家康が出てくる歴史ドラマ等ではかなりの確率で登場する人物であり、ある意味で徳川四天王に引けをとらない認知度のはずなのですが、四人に比べると一歩劣る能力。

 のちに数正が出奔し、家康を仰天させた逸話を思えば、もっと評価されていてもおかしくない気もします。

石川数正の来歴

徳川家臣時代

 石川数正は天文2年(1533年)、石川右康正の子として誕生しました。
 家康無二の忠臣とされた石川家成は叔父にあたります。

 徳川家康が駿河の今川義元に臣従し、人質として駿府にあった時代から、数正は近侍として仕えました。

 そんな中、永禄3年(1560年)、主家であった今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死するという事件が起き、これが転機となって家康は今川家より独立します。

 この際、人質となっていた家康嫡男の信康や、正室であった築山殿を取り戻すべく、今川氏真に交渉し、これを成功させました。

 そして永禄5年(1562年)には、それまで敵であった尾張の織田信長と交渉し、いわゆる清州同盟成立に貢献するなど、功を重ねます。

 永禄6年(1563年)、三河一向一揆が勃発。
 次々に徳川家臣が離反し、数正の父・康正もまた一向宗側につくなど家康が窮地に陥る中、しかし数正は一向宗から浄土宗に改宗してまて、家康の傍を離れなかったといわれています。

 当時の徳川家臣の中で、酒井忠次や叔父の石川家成が重臣として重用されていましたが、それまでの活躍もあって、数正も二人に次いで、重く用いられるようになりました。

 さらに家康の後継者であった信康が元服すると、その後見人を任されるほど信頼されることになります。

 また叔父の家成がそれまで西三河の旗頭を務めていましたが、要地である掛川城を任され三河から離れると、その代わりとして数正が旗頭を務めたとされています。

 家康が経験した主要な戦、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に参加して、軍事面でも武功をあげました。

 しかし後見を務めていた信康が切腹となると、代わって岡崎城を預かり、城代になります。

 このように家康の忠臣として仕えてきた数正でしたが、織田信長が本能寺で死去し、代わって豊臣秀吉が台頭するようになると、その交渉役として数正がその担当になりました。

 そんな中、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが勃発するのです。

豊臣家臣時代

 小牧・長久手の戦いのが終結したあとの天正13年(1585年)11月13日、数正は突如出奔しました。
 向かった先は豊臣秀吉。

 この出奔は未だに謎とされ、その明確な理由は知られていません。

 秀吉との交渉を担当した結果、徳川と豊臣の和睦を主張し家中で孤立したことで、立場が無くなってしまったのではないかとか、秀吉に引き抜かれたのではないのかとか、諸説あってはっきりしていないのが現状です。

 しかし理由はともあれ、数正は徳川家の重臣であり、家中の軍制については知り尽くしていることもあって、家康にとっては大きな痛手となったことは確かでした。

 そのため家康は、軍制を従来のものから武田流に改めたとされているほどです。

 こうして豊臣家臣となった数正は、河内国内で8万石を与えられました。

 天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、信濃国松本10万石に加増移封されます。

 ここで松本城を築城し、城下町を建設して、その政治手腕を発揮しました。

 そして文禄2年(1593年)、死去。享年61。