土岐頼芸【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
土岐頼芸とは戦国時代の美濃国の守護大名。
土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立し、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となりました。
しかし後に、重臣の斎藤道三に追放されることになります。
今回はそんな土岐頼芸を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での土岐頼芸
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 43 |
武勇 | 30 |
知略 | 68 |
内政 | 61 |
外政 | 66 |
知略、内政、外政は60台で普通。
統率、武勇は50以下で苦手。
完全に内政要員という位置づけでしょうか。
意外に高評価、という気もします。
気質は芸道で戦国武将というよりは、まさに文化人。
格付けはもしかして落胤かもしれない斎藤義龍よりも高いB。これまた意外。守護家の血筋の力でしょうか。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
42 | 27 | 72 | 54 |
新生での土岐頼芸は、前作に比べると能力に個性が出た感じですね。
知略以外は下がったものの、知略は70台に至ったので、何となく使える武将の印象となっています。
土岐頼芸とは
土岐頼芸といえば、戦国時代の守護大名というよりは、文化人としての知名度の方が高い人物です。
特に鷹の絵が得意であったようで、これらは土岐の鷹として珍重。
土岐冨景、土岐洞文といった同族の画家も、実は頼芸ではなかったかと考えられています。
頼芸は土岐政房の子として1502年(文亀2年)に誕生しました。
当時はすでに守護家である土岐家に代わって、守護代家の美濃斎藤氏が台頭していたのですが、権勢を誇っていた斎藤妙純が近江で戦死し、土岐家だけでなく斎藤家もまた、不安定であったといえます。
このごたごたで次に頭角を現すようになったのが、長井規秀こと斎藤道三でした。
まあ当時は道三の父である松波庄五郎が頑張っていた時代になりますが。
頼芸は次男という立場ではあったが、その土岐家の家督を巡って兄・頼武と対立。
勝ったり負けたりを繰り返すことになります。
最終的には道三などを重用して実質的な美濃守護となるも、今度は兄・頼武の後継者で頼芸の甥に当たる土岐頼純と対立するなど、美濃国は争乱の様相を呈しました。
そんな頼芸でしたがが、次第に道三と対立。
最終的には道三に美濃国から追放されることになるのです。
とはいえこのあとも頼芸はしぶとく生き長らえました。
妹の嫁ぎ先である近江国の六角氏や、そのあとは実弟の治頼がいる常陸国、さらには総国の土岐為頼を頼って、最後には甲斐国の武田家に匿ってもらっていたそうです。
ちなみに甲斐武田氏は、織田信長による甲州征伐によって滅ぼされ、その際に頼芸が見つけられたといわれています。
そして元斎藤家臣で当時は織田家に仕えていた稲葉一鉄のはからいによって美濃へと帰国し、1582年(天正10年12月4日)に死去しました。
頼芸はなんと読む?
戦国時代に出てくる武将の中には、一見では読めない名前の者も多く、頼芸もその一人。
管理人はずっと「よりあき」と読むのかと思っていました。
ちなみに読み方は、よりあき、よりなり、よりのり、よりよし、と諸説あって、はっきりしているわけではないようです。
『信長の野望』や大河ドラマ『麒麟がくる』などでは「よりのり」になっていますね。
ただ近年、頼忠の菩提寺である禅蔵寺の過去帳を見たところ、芸という字に対して「ノリ」のルビが記載されていたそうです。
ですので「よりのり」を採用したのでしょう。