直江兼続【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
直江兼続とは戦国時代から江戸時代にかけての武将。
上杉家臣であり、米沢藩の家老を務めました。
天下三陪臣の一人であり、また『直江状』により会津征伐及び、関ヶ原の戦いの発端となったことで知られています。
今回はそんな直江兼続を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
生年 | 1560年(永禄3年) |
没年 | 1620年(元和5年12月19日) |
改名 | 樋口与六/與六(幼名)⇒兼続(初名)⇒直江兼続⇒重光 |
別名 | 直江山城守 直江城州(通称) |
主君 | 上杉景勝 |
氏族 | 中原姓樋口氏⇒直江氏 |
家紋 | 三盛亀甲に三葉? 三盛り亀甲に花菱? 亀甲に花菱? |
親 | 父:樋口兼豊 母:藤もしくは蘭子 |
兄弟 | 兼続 大国実頼 樋口秀兼 きた(須田満胤室) 妹(色部光長室) 妹(篠井泰信室) |
妻 | 正室:船 |
子 | 景明 於松(本多政重正室) 女?(於梅?) 養子:本庄長房 本多政重 清融阿闍梨? 養女:阿虎(大国実頼女、本多政重継室、実姪) おまん御料人?(『兼見卿記』) |
信長の野望での直江兼続
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 84 |
武勇 | 77 |
知略 | 87 |
内政 | 93 |
外政 | 89 |
優秀な家臣も多い上杉家なのですが、何故か地味な印象も拭えない中、一人異彩を放っているのが直江兼続です。
その能力は申し分無し。
戦での采配だけでなく、内政手腕をも高く評価されていることが分かります。
その中でも武勇が低めなのは、慶長出羽合戦での攻めきれなかったあたりが、影響しているのかもしれません。
しかしその撤退戦は評価されており、それなりの評価に落ち着いた、といったところでしょうか。
ともあれ上杉謙信亡きあとの上杉家の命運は、兼続の双肩にかかっているともいえます。
是非とも史実通りに粉骨砕身、働いてもらいましょう。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
85 | 75 | 86 | 94 |
新生での直江兼続は、前作とほぼ同じ評価。
文武両道、何をやらせても成果を出してくれます。
直江兼続とは
直江兼続は上杉家臣の中では有名な人物です。
陪臣、という立ち位置ながら、後世に大いに名を残しています。
兼続が家康に喧嘩を売った『直江状』なんかはよく知られていますし、「愛」の字をかたどった兜(錆地塗六十二間筋兜と愛字に端雲の立物)は、色々奇抜な戦国武将の兜の中でも印象的な部類でしょう。
さらには主君である上杉景勝を差し置いて、大河ドラマ『天地人』の主人公をしていたりと抜け目もありません。
この大河ドラマは兼続の性格を決定づけたようなもので、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将・直江兼続! みたいな感じで活躍しました。
とはいえ。
このドラマは視聴率はともかく、脚色が少なからずあり、史実として全て見てしまうとどうかな、とは思う出来だったのですが、ともかく直江兼続のイメージが現代に植えつけられる一因にはなったことは間違いありません。
あと立物のせいで「愛」が強調されてはいるのですが、実際のところは決してドラマ受けしない腹黒いところもあった人物です。
そもそも前立ての「愛」は「LOVE」じゃなくて、愛宕神社の愛宕からきている、というのが通説です。
同じ大河ドラマでいうならば、『真田丸』に出てくる直江兼続の方が、より実像に近い性格をしているかもしれませんね。
来歴
樋口兼豊の子として
直江兼続は1560年(永禄3年)に、樋口兼豊の長男として越後上田庄に誕生しました。
母親については諸説あり、上杉家重臣・直江景綱の妹であるという説や、信州の豪族・泉重歳の娘とする説などがあります。
1564年(永禄7年)、上田長尾家当主であった長尾政景が死去。
政景の子である顕景(のちの上杉景勝)は上杉謙信(当時は上杉輝虎)の養子となり、これに従って兼続も春日山城に入り、その小姓・近習として仕えたともされています。
また謙信の実姉で景勝の母でもあった仙桃院の意思もあって、もっと幼い頃から兼続は景勝に近侍していたともいわれているようです。
直江氏を継ぐ
1578年(天正6年)、上杉謙信が死去します。
これにより、謙信の養子であった上杉景勝と上杉景虎との間で家督を争うことになり、いわゆる御館の乱が勃発しました。
この頃、兼続が何やっていたかはわかっていません。
よく主君である景勝の家督継承を主導したみたいに書かれたり思われていたりもするのですが。、それを裏付ける史料は無いようです。
この乱が収束し、戦後処理が行われた1580年(天正8年)から、兼続が景勝の側近としての活動が史料に見られるようになっていきます。
そんな中、1581年(天正9年)に、景勝側近であった直江信綱と山崎秀仙が、乱の論功行賞のもつれにより毛利秀広に殺害されるという事件が起きました。
この事件で直江信綱は死去し、その妻であり直江景綱の娘であった船の婿養子に兼続がなることを景勝に命じられ、そのままでは断絶するしかなかった直江家の家督を継承し、以降、越後与板城主となって直江兼続と名乗ることになったのです。
これより後の上杉家は、直江兼続と狩野秀治の二人による執政体制が確立していくことになりました。
1582年(天正10年)、甲州征伐により武田勝頼は天目山にて自害。
甲斐武田氏は滅亡します。
武田家の遺領には織田家臣が配置されたものの、時を置かずにして本能寺の変が勃発。
この明智光秀の謀反により、織田家当主・織田信長は横死します。
これにより武田遺領は空白地帯となって、その遺領を巡って後北条氏や徳川氏らと争った天正壬午の乱が発生。
この時兼続は、北信国衆や武田家の遺臣らを庇護し、それらの取次などの窓口を務めたとされています。
豊臣政権時代
1584年(天正12年)の末頃より狩野秀治が病に倒れ、兼続は上杉家の内政や外交のほとんどを担うようになっていました。
狩野秀治が死去すると、兼続は完全に単独での執政を行うようになり、これは兼続が死去するまで続くことになります。
これは景勝との二頭政治に近いもので、家臣は景勝のことを殿様とか上様とか呼んでいた一方で、兼続のことも旦那と敬称していたそうです。
一方、御館の乱の論功行賞への不満から反乱した新発田重家と上杉家は、これまで激しい攻防が継続していました。
1583年(天正11年)には、新潟を巡って両軍は戦い、新発田勢の前に上杉勢は敗北する。
新潟の地は当時湿地帯であったこともあって、豪雨により上杉方は敗北するに至ったのですが、これに対して兼続は当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削し、網の目のように流れていた河川の川筋を定めるなどして新潟平野の基礎を作りつつ、次第に新発田勢を追い詰めていくことになります。
1586年1月9日(天正13年11月20日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐することに成功しました。
そして1587年(天正15年)、兼続は藤田信吉らと共に五十公野城、新発田城を攻略し、新発田重家の乱は鎮圧されることになったのです。
ちなみに藤田信吉は、上杉家中にあって直江兼続のライバルのような存在だった人物でした。
兼続が評価されている一方で、信吉は奸物だの悪党だの変節漢だの散々に言われている人物です。
しかし実際にそのような人物であったかといえばそうでもなく、上杉家中での功績は抜群であり、多くの武功も立て、優秀な人物でした。
ところが関ヶ原前夜の時点で徳川家康との関係を巡って兼続と対立し、出奔したことで、そのようなイメージが定着してしまったようです。
そしてこの出奔も、実は兼続に家康に内通している、って讒言され、身の危険を感じたがゆえに仕方の無い行動でした。
このあたりが兼続が腹黒いといわれるエピソードの一つだったりします。
1588年(天正16年8月17日)になると、景勝と共に上洛。
須田満親や色部真長と共に、豊臣秀吉より豊臣姓を授けられます。
1589年(天正17年)には、佐渡征伐に従軍。
平定後、その功により佐渡の支配を命じられました。
1590年(天正18年)には小田原征伐に従軍。
後北条方の諸城を攻略します。
1592年(文禄元年)より朝鮮出兵が開始。
兼続も景勝と共に参陣し、いわゆる文禄・慶長の役において熊川倭城を築城するなどしました。
一方、兼続は領内の内政においても力を注ぎました。
豊臣政権という安定した中で、戦乱で疲弊した越後国を回復させようと奔走したのです。
この頃に兼続は新田開発を奨励して、実際に開発は進み、現代で新潟県が米所になっているのも、まさにこの時に基礎ができたからでした。
他にも布の販売などで成果を上げています。
当時はまだ木綿が普及しておらず、カラムシと呼ばれる植物から植物繊維を取り出して布を織り、これを京で売りさばいたことで莫大な利益を得ました。
これらのおかげで一旦衰退していた越後国は、上杉謙信の時代の時の繁栄を取り戻したともいわれているほどです。
1598年(慶長3年)、秀吉の命により、上杉景勝は越後から会津120万石へと、加増された上で移封されました。
この際に兼続にも、出羽米沢に6万石の所領を与えられています。
加増といえば聞こえはいいものの、移動先は元々伊達氏の領地であり、伊達政宗はもちろん、領地を接する最上義光との衝突の可能性もあり、ついでに関東の徳川家康の監視という重大任務を科せられていたこともあって、素直に喜べる類のものではありませんでした。
当然このことは、のちの火種になっていきます。
会津征伐
1598年(慶長3年8月18日)、豊臣秀吉が死去。
これにより徳川家康が台頭するようになっていきます。
会津へと国替えとなった上杉家でしたが、本来国替えを行う場合、引き継ぎのために年貢を半分残していくのが決まりでした。
ところが兼続は景勝に無断でこれを全て持ち出してしまったのです。
そんなことしては、もちろんトラブルが発生するに決まっています。
上杉景勝の後に越後に入ったのは堀秀治でしたが、いざ来てみれば残っているはずの年貢が一つもなく、どうやら上杉家が全て持ち逃げしてしまった様子。
普通、怒りますよね?
秀治も最初は返せと訴えたのですが、だけど、上杉方はこれを無視。
とうとう怒った秀治は、上杉家が謀反しようとしている、と家康に訴えることになりました。
これを受けて家康は上杉家を詰問。
この時、兼続による返書・直江状こそが、家康を激怒させ、会津征伐の決断せしめるものとなったとされています。
有名な直江状ですが、現在残っている内容は後世に改竄されたものではないか、という説もあるようです。
もっとも、家康を怒らせた兼続の書状自体は確かにあったのではないか、ともいわれています。
兼続もどこまでその気だったのかは分かりませんが、突っ込まれる原因を自ら作っておきながら、家康を煽って出兵を招いたことは確かでした。
ともあれこのような兼続の行動が主家を窮地に陥れることになったことは事実であり、主君、つまり景勝を誤らせた奸臣とか言われる原因の一つとなっているのです。
やっていることはまさに腹黒であり、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将・直江兼続はどこへ行った? な感じですね。
やはりこの時代、愛や義だけでは生きていけないということだったのでしょう。
家康は会津征伐を決行。
これに対し兼続は、越後で一揆を誘発させて東軍を迎撃させる戦略を練ります。
この越後で起こった一揆を上杉遺民一揆、とも称するのですが、これは堀家が越後に転封された後、すぐに検地を行ったり、これまでより税を重くしたり、無税だったものに課税したりして、民の恨みを買っていたこともあって、一揆の温床ができあがっていました。
しかし堀家がそうせざるを得なかったのは、兼続が年貢を全て持ち逃げしたせいで、財政が困窮していたからなのです。
つまり一揆の遠因は、まさに兼続であると、言い換えることもできてしまいます。
一揆になるような原因を予め作っておいて、後で扇動したわけですね。
これを腹黒いと言わずして、何と表現すればいいのでしょうか。
こうして会津征伐が行われるかにみえたのですが、ここで石田三成が家康に対して挙兵。
これにより家康は上杉征伐を中止しすることになります。
この頃、越後では堀秀治と一揆勢が戦っていたのですが、三成挙兵に合わせて秀治は撤退し、東軍方の前田利長を攻める構えをみせます。
敵のはずが、まさかの味方になったわけで、石田三成からも秀治が西軍方についたことを知らされた兼続は、一揆勢に対して堀家への攻撃を中止させました。
その上で、東軍方の最上義光の所領である山形に対し、自ら総大将として三万の兵を率い、侵攻を開始するのです。
ところが越後の堀秀治の動きは実は策略で、すぐにも東軍方への参戦を明確にし、動きの止まっていた一揆勢に対して急襲。
兼続は事態に気づいて一揆を扇動しようとするものの間に合わず、秀治によって一揆勢は壊滅させられたのでした。
この一揆を壊滅したことで越後の不安要素を取り除くことができた堀家は、その後の統治がとてもやりやすくなったともいわれています。
結果だけをみると、兼続の策謀が裏目に出た、といった感じですね。
慶長出羽合戦
上杉家と最上家はもともと庄内地方を巡って争っていたこともあり、その関係は険悪でした。
家康の会津征伐に呼応して、東北の諸将は最上領に集結していたものの、家康が反転したためその戦力は激減。
危機感を覚えた最上義光は、上杉との和議の使者を送るなどして時間を稼ぎつつ、その間に東軍諸侯と連携して先制攻撃を目論みます。
これに気づいた兼続は、その機先を制して攻撃を開始。
圧倒的兵力で諸城の攻略に取り掛かりました。
しかし最上方は激しく抵抗。
まず畑谷城を攻略。
その上で志村光安が守る長谷堂城と、里見民部が守る上山城を攻めたものの、これもまた頑強に抵抗され、これを攻略することは叶わずに上杉方は多数の被害を出すことになってしまいます。
この長谷堂城の戦いでは、最上方1千に対し、上杉方は1万八千。圧倒的兵力差での力攻めは短期決戦を意図したものだったのですが、落とすことは叶いませんでした。
またこの時の最上方の将・鮭延秀綱の戦いぶりは、兼続をして「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」とまで言わしめて、あとで褒美を遣わせたほどだったそうです。
ともあれ攻略できないまま長谷堂城にて足止めされ、そしてついに関ヶ原において、三成率いる西軍が大敗したとの報がもたらされます。
これを知った兼続は自害しようとしたものの、前田利益(前田慶次)に諫められて撤退を決意。
この動きに対して最上・伊達連合軍は追撃戦を開始します。
兼続が自ら殿となって退却を助け、奮戦し、激戦となりながらも無事撤退を成功させたのでした。
この撤退戦は後世までの語り草となるほど見事なもので、敵将であった最上義光や徳川家康でさえも、これを大いに賞賛したといわれています。
兼続は東北の大名である伊達氏や最上氏を屈服させた後、関東を目指すという戦略のもとに軍事行動をとっていたものの、関ヶ原本戦の敗北により、その方針を降伏へと転換することになりました。
江戸時代
1601年(慶長6年7月)、兼続は景勝と共に上洛して家康に謝罪。
景勝は家康に罪を許され、出羽米沢30万石へ減移封となりつつも、上杉家は存続となりました。
以降は徳川家に忠誠を誓うことになります。
1608年(慶長13年1月4日)、兼続は重光に改名。
兼続は土地の開墾のために治水事業に力を入れて、直江石堤と呼ばれる谷地川原堤防を設けたとされています。
こういった兼続の事業により、30万石が表高のところ、実際には51万石まで石高を増やしたともされているようです。
ともあれこれらにより、米沢藩の藩政の基礎を築くことになりました。
また上杉家と徳川家の融和のために、徳川家重臣であった本多正信の次男・政重を兼続の娘の婿養子にし、交流を持って1609年(慶長14年)にはその正信の取り成しによって、三分の一にあたる10万石分の軍役が免除されるという功を上げ、上杉家に貢献しています。
1614年(慶長19年)には大坂の陣が勃発。
徳川方として参戦し、武功を挙げました。
そして1620年(元和5年12月19日)、江戸鱗屋敷にて病死。享年60。
兼続の死を知った幕府は、賭典銀50枚を下賜したという。
そして兼続の死後、直江家は断絶しました。
兼続の嫡男であった直江景明は、兼続に先立って1615年(慶長20年7月12日)に病死。
享年22で子どもはいませんでした。
兼続の婿養子の本多政重と、景明誕生以前に兼続の養子であった本庄長房の2人は共に加賀藩へと出奔していたことから、無嗣断絶となったのです。
また確証はないのですが、兼続は兼続なりに上杉家の大幅な減封を招いたことに対する責任を感じていたこともあって、上杉家中では高禄であった直江家の知行を返上することにより、少しでも上杉家の財政を助けようとして、意図的に断絶したのではないか、とも考えられています。
主君であった景勝とは理想的な君臣関係であったともいい、本当に上杉家のことしか考えてなかった人物なのかもしれません。
そのため見方によってはまさに義に生きた、とも言え、しかし結果的には奸臣だった、とも批判されることもあったのかもしれません。
しかし現代においてその評価はおおむね高く、良いものであることも、また事実なのです。