島左近(島清興)【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
島左近とは戦国時代の武将であり、筒井氏、石田三成の家臣です。
通称は左近。
一般には島左近の名で有名です。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材でしたが、関ヶ原の戦いにおいて討死することになります。
今回はそんな島左近を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での島左近
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 88 |
武勇 | 91 |
知略 | 84 |
内政 | 46 |
外政 | 61 |
『大志』における島左近の能力は、実に優秀です。
統率、武勇、知略が高く、戦場では十二分に働いてくれるでしょう。
左近といえば石田三成ですが、三成自身は決して戦が得意とはいえない能力値なので、そんな主の足らない能力を見事にカバーしてくれている能力配置となっていますね。
そして主の宿敵である徳川家康配下の四天王が相手でも、十分にためを張れる能力です。
ううむ、やはり三成には過ぎたるものか……?
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
87 | 90 | 85 | 45 |
新生での島左近は知略は微増したものの、統率、武勇は微減、といった評価ですね。
まあ誤差の範囲といったところでしょうか。
相変わらずお強いです。
島左近の来歴
筒井家臣時代
何かと有名な島左近ですが、その出身地については諸説あるようで、はっきりとはしていません。
対馬や近江、大和国など、いろいろ考えられているようですね。
とはいえ近年では、大和説が可能性としては高いだろうと考えられているようです。
そんな島左近は、天文9年5月5日(1543年6月9日)に誕生しました。
父親は現在の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主であった、島豊前守なる人物だとされています。
とはいえ。
左近といえばまず筒井家に仕えていたことが知られていますが、天文19年(1550年)に筒井順昭が死去した頃、すでにその重臣であったとされているですが、生年を信じるならばこの時の左近はまだ十にも満たない子供なわけでして。
そして筒井順昭の跡を継いだのが、2歳で家督継承した筒井順慶なわけでして、筒井家の低年齢化がよく分かるエピソードですね。ヾ(ーー )ォィ
そんな島左近の「左近」の由来は、幼少であった順慶を、同じ筒井家臣であった松倉重信(通称右近)とともに盛り立て「右近左近」と称されていたから、ともいわれています。
ちなみに有名な「島左近」の名ですが、本名は「島清興」といったそうです。
ともあて、筒井家における左近の実在が史料等から確認できるのは、天正11年(1583年)5月のことであり、上記の低年齢化云々はともかくとしても、やはり左近の前半生ははっきりしない部分が多そうですね。
さてそんな左近でしたが、天正12年(1584年)に主君であった順慶が死去し、その家督を甥であった筒井定次が継承したのですが、ほどなく筒井家を去ることになります。
理由はいろいろあるそうですが、新たな主君が酒色に覚え、政治などそっちのけの仕えるに足りぬ主であったため見限ったといわれる一方で、同じ筒井家臣であった中坊秀祐と左近との確執に、定次が中坊方に立ったから、ともいわれているようで、どうやら後者のほうが主たる原因のようです。
筒井家を辞したあと、左近は新たな職を求め、蒲生氏郷に仕えたとか、豊臣秀長に仕えたとか、そのあとは豊臣秀保に仕えたとか、諸説あるようですね。
石田三成家臣時代
そして島左近は、ついに石田三成に仕えることになります。
このエピソードはかなり有名で、三成はそれまで多くの要請を断ってきた左近を家臣に迎えるべく要請するも、まずは断られ、ならばと三成の禄高4万石のうちの半分にあたる2万石を与えることで、ついには左近に首を縦に振らせた、というものですね。
いわゆる『君臣禄を分かつ』の逸話として知られています。
これが真実かどうかは確証がありません。
他の君臣の例からとられた創作に過ぎない、という説もあります。
ですが仮に創作であったとしても、こういう逸話が作られるほどの君臣の関係であったことは、今も想像に難くないでしょう。
さてそんな左近も、三成の家臣時代に具体的にどのような活動をしていたのかは、よくわかっていません。
近年、新たな史料の発見などから少しずつ明かされてはきていますが、今後の研究が待たれるところですね。
しかし島左近といえば、そう。
その最期を飾った関ヶ原の戦いを抜きにしては語れないでしょう。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、左近の主であった石田三成と徳川家康との対立から、関ヶ原の戦いが勃発します。
その前日、左近は自軍の鼓舞のために東軍に対して奇襲攻撃を進言し、これは受け入れられて、関ヶ原の前哨戦である杭瀬川の戦いが起きました。
これを指揮した左近は奇襲に成功。
西軍がまずは勝利となったのです。
そして関ヶ原本戦が開始。
結果はもはや語るまでもないのですが、西軍の奮戦虚しく、相次ぐ裏切りなどの発生によって西軍は壊滅。
左近も壮絶な戦死を遂げたとされています。
そんな左近の最期については諸説あり、黒田長政隊と戦って銃撃により討ち死にしたとも、また戸川達安に討ち取ったともいわれているようです。
ともあれ左近の戦いぶりは、徳川方をして「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と記録に残されるほど恐ろしいものであったようで、この時左近と対峙した東軍の各将はのちの世で当時のことを振り返ったものの、みな一様に記憶が曖昧で、それは当時の左近の恐ろしさゆえに記憶に残すことすらできなかった、ともいわれているほどでした。
島左近の享年は61。
その墓地は複数あり、奈良市川上町の三笠霊苑内、また京都市上京区の立本寺塔頭教法院墓地に存在します。
左近のその後
関ヶ原の戦いで戦死したというのに、その後もくそも無いのですが、左近には関ヶ原においては死なず、生存した、という異説や伝説の類が残っていることでも知られています。
関ヶ原の戦いで戦死した有名な武将といえば、大谷吉継などが挙げられますが、その吉継同様、左近の首級は実は見つかっていません。
そしてあろうことか、戦後に京において、左近を目撃したという複数の証言が残っていたりします。
またすでに記した左近の墓所の一つである京都市の立本寺において、なんと左近は僧となり、その後32年間を生きながらえたとされ、また寺の過去帳には寛寛永9年6月26日没となっているそうで、信憑性はともかくとしても、こういった逸話は後世のひとの創作意欲を搔き立てたことでしょう。