朝倉景隆とは戦国時代の武将であり、越前朝倉氏一門として朝倉家に仕えた人物である。
朝倉孝景、朝倉義景父子に仕えた安居城主として知られている。
生年 1508年(永正5年)か?
没年 1570年(元亀元年)か?
家紋 三盛木瓜(みつもりもっこう)
主君 朝倉孝景⇒朝倉義景
親 父:朝倉景職
母:北殿(朝倉貞景長女)
子 朝倉景健
朝倉景隆とは








朝倉家一門での序列
朝倉景隆は越前朝倉氏の家臣である朝倉景職の子として、1508年(永正5年)に生まれたとされているが、正確ではない。
母親は朝倉氏9代目当主であった、朝倉貞景の長女・北殿。
つまり11代当主になる朝倉義景の従兄弟にあたることになる。
祖父は越前を統一した朝倉(英林)孝景の兄弟で、英林孝景やその子・氏景を補佐して越前統一に貢献した朝倉経景であり、母は英林孝景のひ孫であったため、朝倉一門での序列は高かったとされている。
一門の中では大野郡司や敦賀郡司に次ぐ家柄であったという。
朝倉家総大将として
朝倉家においては長くに渡り、一族の名将であった朝倉宗滴が総大将を務めて各地を転戦したが、1555年(天文24年)の加賀一向一揆攻めの最中、宗滴は陣中にて倒れ、病死。
これにより宗滴の代わりに総大将を務めることとなり、軍権を委ねられている。
景隆は朝倉家の重臣であった山崎吉家と共に加賀において、約半年以上、戦闘を継続したという。
景隆は武勇に長けていたといわれていたが、それでも宗滴ほどの力量は無かったようで、一向一揆攻めに対して成功を収めることはできず、逆に越前国内に侵入され、各地を焼かれている。


そのため室町幕府の仲介を得て和睦。
1564年(永禄7)には一門筆頭で大野郡司の朝倉景鏡(景隆や主君・義景の従兄弟)と共に総大将となって、再び加賀に出陣するなど、総大将を歴任した。
子である朝倉景健も、のちに姉川の戦いにおいて総大将を務めることになる。
1570年(元亀元年)頃になり、自身の嫡男を含めた子らが相次いで三人も死去。
これに続いて景隆もこの頃に死去したとされている。
景隆の跡は末子であった景健が継ぎ、安居城主となった。