南部晴政【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
南部晴政とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
南部氏24代当主であり、陸奥国の戦国大名の一人です。
「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われた南部氏の最盛期を現出した、勇猛な人物でした。
今回はそんな南部晴政を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での南部晴政
信長の野望・大志での能力値
信長の野望 大志 | |
---|---|
統率 | 85 |
武勇 | 79 |
知略 | 49 |
内政 | 43 |
外政 | 42 |
統率、武勇に優れた能力値ではあるものの、それ以外が40台と及第点以下という能力もあって、他の奥羽の戦国大名たちに比べると、見劣りするかもしれません。
この辺りは家督継承絡みで内部対立を引き起こしてしまったことが、マイナスに評価された結果でしょう。
とはいえ。
『信長の野望』での南部家は、放っておくと奥州最大の勢力に成長することがしばしばです。
自身よりも優秀な最上義光やら伊達一族など敵ではありません。
むしろ狩場。
南部家は立地条件がいいため、優秀な奥州の諸大名を麾下に加えつつ、国力を充実させて南下策をとり続けていれば、会津あたりで同じく勢力拡大させた北条氏や上杉氏と対決することになります。
どちらも難敵ですので、どちらかと結んでどちらかを打倒すれば、東国制覇はなったも同然。
晴政による天下統一も夢ではないですね。
信長の野望・新生での能力値
統率 | 武勇 | 知略 | 政務 |
84 | 80 | 47 | 40 |
新生での南部晴政は武勇こそ80台に上昇したものの、それ以外は微減、といった評価です。
政務能力は今にも40を割り込みそうですが、次作ではどうなるのか。
南部晴政の来歴
南部晴政は南部氏第23代当主・南部安信の嫡男として永正14年(1517年)に誕生しました。
天文8年(1539年)に上洛。
室町幕府12代将軍・足利義晴より「晴」の一字を拝領されました。
天文9年(1540年)、戸沢政安、斯波経詮が岩手郡に侵攻してくると、叔父である石川高信に迎撃させ、戸沢政安を秋田に追放し、斯波経詮を撃退して、岩手郡を手中に収めることになります。
天文10年(1541年)、南部氏の家督を継承。
第24代当主となります。
その上で謀反を起こした工藤氏を討ち、家臣によってかつて焼失させられた三戸城を再建し、南部氏を統一しました。
晴政には男子が無かったこともあり、永禄8年(1565年)に叔父・石川高信の子で晴政の従兄弟にあたる信直を長女の婿にして、養嗣子として三戸城に迎えます。
その後、出羽国の戦国大名であった安東愛季との抗争が続き、撃退してもまた攻めてくるを繰り返し、永禄10年(1567年)には長牛城が落城することになります。
これに対し、翌永禄11年(1568年)、晴政は養子・信直と共に大湯へと向かい、安東勢を攻め、奪還に成功しました。
このような安東氏との抗争の中で、八戸政儀、一戸政連、九戸政実らと主従関係を結び、南部氏は勢力を拡大。
その版図は現在の青森県下北半島から岩手県北上川中央部に及び、この時に「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われることになりました。
これはどういう意味かというと、月が三日月の頃に南部領に入り旅を続けると、連日歩いても領内を通り抜けるためには満月になるまで日数がかかってしまう。それくらい、南部が治めている領地は広大である、ということですね。
このように順調に版図を拡大していった晴政でしたが、養子として迎えていた信直との間に確執が生じてしまいます。
その原因は、例によって晴政に実子が誕生したことに起因するものでした。
元亀元年(1570年)に実子・晴継が誕生すると、晴政は養子である信直を疎んじるようになってしまいます。
また元亀2年(1571年)、同じ南部氏族の大浦為信(津軽為信)が、信直の実父・石川高信を突如討ち取って野心を明らかにし、怒涛の勢いで周りの南部一族の豪族を次々と滅ぼして、最終的には津軽、外ヶ浜、糠部の一部を占領するに至ってしまいます。
しかし晴政はこの時、信直との確執が深まって抗争するに至っており、自らが鎮圧に向かうこともできず、派遣した討伐隊は撃退される始末でした。
このような状況下にあっても両者の確執は継続し、元亀3年(1572年)には晴政自ら手勢を率いて信直を襲撃し、しかし信直は逆撃して晴政を狙撃して落馬させるなど、両者の緊張は最高潮に達することになってしまいます。
しかし天正4年(1576年)、晴政の長女で信直正室が早世すると、なけなしの繋がりを無くし、身の危険を感じた信直は晴政の養嗣子の座を辞退。
田子城に引き籠もって刺客から逃れたとされます。
ただこれで両者が和解できたわけではなく、その後も確執は続き、最後まで
対立は続きました。
そしてそのような中、天正10年(1582年)、晴政は病死。
享年66でした。
その家督は嫡男であった晴継が継ぐことになります。
しかし南部晴継は、同年に僅か13歳で疱瘡を病んで死去。
これは暗殺された可能性が高いとも考えられているようです。
そしてその家督は結局、南部信直が継承したのでした。