合戦の歴史

若江の戦い【豊臣の若武者・木村重成の最期の戦いである大坂夏の陣】

土岐 無理之介

 若江の戦いとは、大坂方豊臣家と江戸幕府との間で行われた大坂の陣における戦いの一つです。
 豊臣家の若き武将である木村重成が、奮戦するも討死した戦いとして知られています。
 またこの戦いは八尾の戦いとも連動しているため、八尾・若江の戦いともいいます。

若江の戦い(わかえのたたかい)
年月日1615年(慶長20年)
場所河内国 若江郡若江村付近
交戦勢力豊臣軍
江戸幕府軍
指揮官豊臣軍:木村重成 山口弘定 内藤長秋 木村宗明
幕府軍:井伊直孝 榊原康勝 仙石忠政 諏訪忠恒 保科正光 藤田信吉 丹羽長重 山口重信
戦力豊臣軍:6,000
幕府軍:9,500
結果幕府軍の勝利

若江の戦いとは

 若江の戦いは基本的に、八尾の戦いと同時進行でした。

 場所が少し離れていたこと、相対した敵味方の武将が違って一応はそれぞれが独立した戦いではあったものの、同時に連動もしていた、ということです。

 八尾の戦いは長宗我部盛VS藤堂高虎! 

 若江の戦いは木村重成VS井伊直孝!

 八尾では長宗我部勢が勝利するのですが、果たして若江ではどうなったのか。

河内方面での迎撃

井伊直孝像
井伊直孝像

 大坂冬の陣において、大坂城は堀を全て埋められたことで野戦による迎撃しか手段が残されておらず、それに対して江戸幕府軍は河内、大和、紀伊方面より軍勢を侵出させました。

 その中の河内方面隊は藤堂高虎・井伊直孝らを先鋒に進軍。

 大坂方はこれに対し、低湿地帯で迎撃することで混戦に持ち込み、大部隊の利点を殺ぐ戦術を用いることになります。

 迎撃部隊として大坂城を出発したのが、木村重成率いる兵6.000と長宗我部盛親率いる兵5,300でした。

 長宗我部盛親は八尾にて藤堂勢の中軍を迎え撃つことになり、木村重成は若江にて藤堂勢に右翼を迎え撃つことになるのです。

木村重成の進路と開戦まで

木村重成像
木村重成像

 木村勢は慶長20年の5月2日に大坂城を進発。

 5月5日朝に、今福方面を偵察し、幕府軍がここを進路とする可能性は低いとみた重成は、河内方面軍の本隊である徳川家康・秀忠の側面を突くために、若江に兵を進めました。

 途中の行軍は順調ではなく、道を間違えてしまうなどの問題も発生しています。

 これは重成自身がまだ若く経験不足であり、また兵の錬度不足も原因であったとされているようです。

 5月6日の午前4時頃、藤堂隊右翼の藤堂良勝が、若江へと進軍する木村勢を発見します。

 藤堂良勝は木村重成の意図を見抜き、高虎へと開戦を進言。

 これを受けて高虎は開戦を決断し、両軍は激突することになったのです。

若江の戦い

『大阪落城大戦図』歌川芳虎画
『大阪落城大戦図』歌川芳虎画

 若江に着陣した木村勢は、幕府軍の来襲に備えることになります。

 その木村勢に対し、藤堂隊右翼である藤堂良勝、藤堂良重が攻撃を開始。

 木村はこれを迎撃し、藤堂勢は敗走しました。
 この時に藤堂良勝、良重は戦死しています。

 八尾の戦いでもそうですが、とにかく藤堂勢にとっては一族の者が複数討死するような、熾烈な合戦だったようです。

 その後、藤堂勢と共に先鋒を務めていた井伊直孝が転進し、若江へと進軍。
 木村勢への攻撃を決断することになります。

 重成は藤堂勢を破った後、兵を集めて更なる敵の来襲に備えていました。

 この時に重成の家臣が、兵は疲れており、次戦えば敗北する、と諌めるのですが、重成はこれを一蹴し、来襲する井伊勢への攻撃を敢行したといわれています。

 井伊勢の左翼・川手良列は木村勢へと突撃を開始。

 木村勢は後退し、川手隊は更に突進し、その末に川手良列は討死します。

 そこに右翼・庵原朝昌も参加。
 両軍は激戦となり、重成自身も奮戦するも、つには庵原朝昌に討ち取られました。

 これによって木村本隊は壊滅。
 木村勢の左翼であった木村宗明は本隊の敗北により、大坂城へと撤退し、若江の戦いは豊臣方の敗北で終わったのでした。

 この若江の戦いの敗北により、八尾では長宗我部盛親が勝利していたものの、撤退を余儀なくされています。

 また勝利した幕府軍ではあったものの、藤堂・井伊勢ともに大打撃を受け、翌日行われた天王寺・岡山の戦いでの先鋒を辞退せざるを得なくなったといわれているほどでした。

 またこの戦いは豊臣方が意図したように低湿地帯で行われ、大規模な部隊での戦闘が出来ず、小規模な軍勢での戦いに終始したことで、消耗戦の様相を呈することになったのです。

 そのため勝利した井伊勢もまた、大損害を被る結果になったというわけですね。

 そしてこれは八尾方面でも同様で、勝利した長宗我部勢も実質壊滅状態にあったといいますから、その激戦ぶりを窺うことができるというものでしょう。

 ともあれこれで後が無くなった豊臣方は、ついに最終決戦である天王寺・岡山の戦いに挑むことになるのです。

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土岐無理之介
土岐無理之介
歴史好き。主に戦国時代。
旅ついでに城郭神社仏閣を巡りなどやってます。

趣味で小説など書いたりも。カクヨムや小説家になろうにて、荒唐無稽な歴史IF小説などを、気ままに投稿しています。
たまにはイラストなども描いてみたり。
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