八尾の戦い【長宗我部盛親が藤堂高虎に勝利した、大坂夏の陣】
八尾の戦いとは、大坂方豊臣家と江戸幕府との間で行われた大坂の陣の戦いの一つです。
大坂城五人衆の一人である長宗我部盛親が、名将・藤堂高虎に勝利した戦いとして知られています。
年月日 | 1615年(慶長20年) |
場所 | 河内国 河内郡八尾村付近 |
交戦勢力 | 豊臣軍 |
江戸幕府軍 | |
指揮官 | 豊臣軍:長宗我部盛親 増田盛次 吉田重親 |
幕府軍:藤堂高虎 藤堂高吉 | |
戦力 | 豊臣軍:5,300 |
幕府軍:5,000 | |
結果 | 豊臣軍の戦術的勝利 |
八尾の戦いとは
八尾の戦いは、大坂夏の陣に関連する戦いの一つです。
例によって大坂夏の陣の豊臣方は籠城ができず、迎撃するしか術が無かったのですが、幕府軍河内方面隊への迎撃戦を八尾・若江の戦いという
ここでは主に八尾の戦いについてみていきましょう。
江戸幕府軍による、河内方面隊
大坂冬の陣により、豊臣・幕府方は和睦となったものの、その条件によって豊臣方の篭る大坂城の堀が埋められることとなり、篭城戦は不可能となりました。
大坂夏の陣が勃発すると、迎撃するしかなくなった豊臣方に対し、幕府方は河内、大和、紀伊方面より大坂城へと侵攻を開始します。
その中の河内方面隊は、藤堂高虎、井伊直孝を先鋒として、本多忠朝、前田利常、松平忠直といった将により構成され、その兵力は55,000という大軍でした。
この河内方面軍に対し、豊臣方は相手が大軍であることを逆手にとって、湿地帯で戦うことでその機動力を奪い、大軍の用をなさなくする戦術で迎え撃つことを決定します。
しかし機動力を失うのは味方も同じことであり、このことが両軍共に、泥沼の戦いを呈した原因となったのです。
その迎撃の大将として、木村重成率いる兵6,000、及び長宗我部盛親率いる兵5,300が5月2日に大坂城を出発することになります。
木村重成隊は若江方面へ、長宗我部盛親隊は八尾方面へと進出しました。
八尾の戦い
5月6日、長宗我部隊の先鋒である吉田重親が藤堂軍と遭遇。
この先鋒隊は軽装備であったため、本隊に合流しようとしたものの、藤堂隊に発見され、藤堂高吉の攻撃を受けてしまうことになります。
吉田重親は本隊に伝令を発するも、鉄砲を撃ち込まれて先鋒隊は壊滅。
吉田重親は討死しました。
まずは幕府軍の先制攻撃が、会心の一撃になったのです。
伝令を受けた盛親は、長瀬川にて迎撃の態勢を整えることになります。
一方、緒戦に勝利した藤堂勢の先鋒である藤堂高刑・桑名吉成は、道明寺へと向かう進路を変え、転進し、長瀬川に布陣した長宗我部盛親勢へと迫っていました。
高虎の旗本であった藤堂氏勝もそれに続いたとされています。
これは勝利した勢いに乗じ、一気に長宗我部盛親勢を破ってしまおうというものでした。
しかし盛親は冷静に、これを迎え撃つことになるのです。
対する長宗我部盛親勢は、騎馬武者も含めて下馬させ、堤防の上に伏せて待ち構えさせました。
藤堂勢が進軍し、十分に引き付けた上で、槍をもって一斉に突撃させたといいいます。
これによって藤堂勢は大混乱となり、藤堂高刑・桑名吉成らは討死。
藤堂氏勝は負傷し、退却中に死亡。
吉田重親を破った藤堂高吉も来援するものの、撃退されました。
藤堂隊の先陣は壊滅し、盛親は更に猛攻を加え続けたことで藤堂勢は全軍が混乱し、藤堂家の将が一度に討死するという大敗北の上、藤堂高虎自身、逃げ回る羽目になるという潰走状態であったといわれています。
長宗我部盛親による、戦術的勝利ででした。
戦いの影響
八尾の戦いに勝利した長宗我部勢でしたが、一方の木村重成率いる部隊が若江にて井伊勢に敗北。
井伊勢の来援もあり、敵中で孤立することとなった長宗我部勢はやむなく大坂城に撤退しました。
片方が勝利しても片方が敗北したことで、結局全体としては迎撃はうまくいかなかった、ということだったのです。
長宗我部勢に余力があればまた話は違っていたのかもしれませんが、勝利したとはいえ被害も多く、連戦には耐えられなかったのも事実でした。
その撤退の際、もしくは八尾の戦いそのものにおいて、長宗我部勢の受けた被害も多大であり、部隊は事実上壊滅していたともいわれています。
そのため翌日行われた大坂の陣の最終決戦である、天王寺・岡山の戦いに盛親は参加せず、大坂城に留まらざるを得ませんでした。
これは幕府方も同様で、大被害を受けた藤堂勢もまた、天王寺・岡山の戦いの先鋒を辞退せざるを得なかったのです。
桑名吉成
ちなみに余談ですが、この戦いで藤堂勢として長宗我部勢と戦い、討死した桑名吉成という人物は、かつて長宗我部家に仕えた武将であす。
九州征伐の際に豊臣軍が大敗北を喫した戸次川の戦いにおいて、主君・長宗我部元親(盛親の父)を守り抜いたことで知られている人物ですね。
のちに盛親にも仕えたのですが、盛親は関が原の戦いに西軍として参加して敗れ、その後改易となり、家臣であった桑名吉成は藤堂高虎に仕えることになったという経緯がありました。
この八尾の戦いにおいて、かつての主君と戦うことになった吉成は、盛親と戦い壮絶な戦死を遂げたといわれています。
一説では、かつての主君と戦うことが忍びなく、討死覚悟で敵中に突撃し、いわばそれは自害の類であったとも考えられているようです。