武田信勝とは安土桃山時代の武将であり、甲斐武田氏の21代目当主。
父は武田信玄の子である武田勝頼であり、母は遠山直廉の娘で織田信長の養女でもある龍勝院。
大名家としての甲斐武田氏の、最後の当主になる。
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生年 | 1567年(永禄10年11月1日) |
没年 | 1582年(天正10年4月3日) |
改名 | 武王丸⇒信勝 |
別名 | 太郎 |
家紋 | 武田菱(たけだびし) |
親 | 父:武田勝頼 生母:龍勝院 継母:桂林院 |
兄弟 | 信勝 勝親 貞姫 |
子 | 養子:信治 (穴山氏) |
武田信勝とは








略歴
1567年(永禄10年)に、諏訪勝頼(武田勝頼)の長男として、高遠城に誕生。
父・勝頼はかつて信濃国を治めていた諏訪氏の娘を母とし、武田信玄との間に生まれた庶子であり、諏訪氏を相続して高遠城主となっていた。
母は美濃国苗木遠山氏の出身で、織田信長の養女となった上で武田勝頼に嫁ぎ、信勝を出産した際に死去している。




父・勝頼は信玄の四男という立場であったものの、1565年(永禄8年)に、信玄の嫡男で勝頼の兄であった武田義信が謀反。
これに失敗して廃嫡となり、義信は甲府東光寺に幽閉されて死去した。
また次男の海野信親(武田竜芳)は盲目であり、三男の信之は夭折していたため、家督は勝頼が継承することになる。
家督継承後の勝頼は徳川家康らと争い、領土拡大を目指すものの、1575年(天正3年)に行われた長篠の戦いにて大敗を喫し、武田氏は弱体化。
その後、仇敵であった上杉氏とは甲越同盟を、佐竹氏とは甲佐同盟を成立させて再建を図り、さらには織田氏との関係改善も模索する。
1579年(天正7年)には信勝の元服準備がされ、元服したと見られている。
これは織田氏と縁のある信勝を当主にすることで、織田氏との融和を図る狙いがあったと考えられている。
しかし織田氏はこれを黙殺し、1582年(天正10年)に織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始。


これにより武田領国は崩壊し、勝頼は居城であった新府城を放棄しつつ小山田信茂を頼ったが、信茂は離反。
ついには天目山にて滝川一益と戦い、信勝は父・勝頼やその家臣であった跡部勝資、土屋昌恒らと共に自害して果てた。享年16。

『天目山勝頼討死図』
大名家としての武田氏はここに滅亡したが、その名跡は従弟の穴山勝千代(武田信治)が、その後は徳川家康の五男・武田信吉が継ぐものの、夭折して断絶した。
そのため武田信玄の次男・竜芳の子である武田信道が引継ぎ、存続することになる。








甲斐武田家(甲斐源氏)歴代当主
第1代 源義光 1045年~1127年
第2代 源義清 1075年~1149年
第3代 源清光 1110年~1168年
第4代 武田信義 1128年~1186年
第5代 武田信光 1162年~1248年
第6代 武田信政 1196年~1265年
第7代 武田信時 1220年~1289年
第8代 武田時綱 1245年~1307年
第9代 武田信宗 1269年~1330年
第10代 武田信武 1292年~1359年
第11代 武田信成 生年不詳~1394年
第12代 武田信春 生年不詳~1413年
第13代 武田信満 生年不詳~1417年
第14代 武田信重 1386年~1450年
第15代 武田信守 生年不詳~1455年
第16代 武田信昌 1447年~1505年
第17代 武田信縄 1471年~1507年
第18代 武田信虎 1494年~1574年
第19代 武田信玄 1521年~1573年
第20代 武田勝頼 1546年~1582年
第21代 武田信勝 1567年~1
582年
第22代 武田信治 1572年~1587年
第23代 武田信吉 1583年~1603年
武田信勝画像
