仁科盛信とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
甲斐国の戦国大名・武田信玄の五男であり、甲州征伐の際には逃亡する武田家臣の中で踏み止まり、徹底抗戦を貫いて、高遠城に玉砕して果てたことで知られている。
生年 1557年(弘治3年)?
没年 1582年(天正10年3月25日)
改名 武田晴清⇒仁科盛信
別名 五郎⇒信盛
家紋 丸に割り菱
主君 武田信玄⇒武田勝頼
親 父:武田信玄 母:油川夫人
兄弟 義信 竜芳 信之 黄梅院
見性院 勝頼 真竜院
葛山信貞 信清 松姫 菊姫
子 信基? 武田信貞?
晴正? 信久? 督姫
仁科盛信とは








武田信玄家臣時代
仁科氏
仁科盛信は1557年(弘治3年)、武田信玄の子として誕生。
父・信玄は家督を相続して以降、信濃国の侵攻を本格化させ、攻略すると共に信濃の国人を武田家臣として取り入れていった。
仁科氏は安曇郡を領する国人領主でしたが、武田氏が信濃侵攻を開始すると、信濃守護の小笠原氏や、村上氏と共闘してこれに抵抗。しかし力及ばず、1553年(天文22年)には武田氏に帰属することになる。
当時の仁科氏の当主は仁科盛政といい、1561年(永禄4年)に行われた第4次川中島の戦いにも信玄に従って、佐久地方を転戦していたという。
ところが盛政の留守を務めていた家臣らが上杉氏と通じ、武田氏に抵抗。
そのため信玄は盛政の居城であった森城を落とし、盛政は甲斐へと連行されて処刑され、仁科氏は滅亡することになる。
信玄の方針
信玄は信濃を支配するにあたって、征服した名族と婚姻関係を結び、それらを武田の親族衆に列することで懐柔する、という方策を用いられており、この仁科氏についても同様の措置が行われた。
すなわち信玄は、自分の子である盛信に仁科氏の名跡を継がせることにしたという。
盛信は仁科氏当主として活動し、武田氏と敵対する上杉氏の越後国との国境警備を担った。
高遠城の戦い
1573年(元亀4年)、武田信玄が死去。
その死後は、武田氏当主を異母兄である武田勝頼が家督を継承し、盛信は勝頼に仕え、そのまま国境警備を継続して務めた。
それまで武田氏が戦ってきた相手とは代わり、織田氏との抗争が激化。
1581年(天正9年)には、盛信の居城であった森城に加え、高遠城の城主を兼任するようになり、信濃佐久郡内山城代の小山田昌成や大学助兄弟と共に高遠城に拠って、織田氏の侵攻に備えたという。
1582年(天正10年)、織田信長による甲州征伐が開始。
盛信らは3,000の兵をもって高遠城に籠城し、5万の大軍で攻め寄せてきた織田信忠を迎え撃つことになる。


これに対し、信忠は降伏を勧告。
盛信はこれを拒否し、使者にきた僧の耳をそぎ落として追っ払い、徹底抗戦の意思を示したという。
これにより、高遠城攻めが始められ、織田軍の猛攻を盛信は奮戦して撃退し、織田軍に大きな被害を出すも、衆寡敵せず。
約500名の家臣は討死し、ついに盛信は自刃して果てた。享年26。










自害後、その首級は信忠の元に届けられ、武田勝頼や武田信勝、武田信豊ら一族と共に、京の一条通りの辻に、長谷川宗仁によって獄門にかけられた。
しかしその遺体は領民によって、手厚く葬られたといわれている。
仁科盛信画像
