渡辺守綱【信長の野望・武将能力からみる評価と来歴】
渡辺守綱とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
徳川氏の家臣。
槍半蔵の渾名も有名で、徳川十六神将の一人としても知られています。
今回はそんな渡辺守綱を、歴史シミュレーションゲームとして有名な『信長の野望』の武将能力から見ていきましょう!
信長の野望での渡辺守綱
信長の野望・新生での能力値
信長の野望 新生 | |
---|---|
統率 | 64 |
武勇 | 83 |
知略 | 38 |
政務 | 19 |
完全なる猪武者設定な能力値ですね。
武勇だけは83と突出し、見るべきものがありますが、統率は60台と平凡。
知略、政務は10~30台と腐っています。
とはいえのちに功績として江戸幕府旗本・尾張藩付家老にまで出世し、1万石以上を得たのですから、槍一本と腕っぷしさえあれば、どうにかなるのです。
ゲーム中でもその武勇を活かして活躍してくれることでしょう。
渡辺守綱の来歴
渡辺守綱は天文11年(1542年)に、三河国額田郡浦部村にて誕生しました。
現在でいう、愛知県岡崎市のあたりです。
父親は松平氏の家臣であった渡辺高綱。
守綱は主君となる徳川家康と同い年であり、若くしてこれに仕えました。
特に槍を得手としており、永禄5年(1562年)に三河国八幡の合戦で今川氏家臣・板倉重貞と戦い敗れた際、後尾にあって奮戦したのですが、それ以来「槍半蔵」と呼ばれ称されました。
徳川家臣で「半蔵」といえば「鬼半蔵」の異名で知られる服部正成ですが、これと並び称されていたわけですね。
このように忠誠心をみせる守綱でしたが、一方で熱心な一向宗の門徒でもありました。
そして永禄6年(1563年)、家康の窮地の一つである三河一向一揆が勃発します。
この時、家康が窮地に陥ったのは、自身の家臣の多くが一向宗側について敵対したからなんですね。
そして守綱もまた、門徒側にたって家康と戦う道を選んでしまいます。
家康は一向一揆を苦心しながらもどうにか撃退。
敗れた守綱は帰参を許され、以降は家康が経験した主要な戦の大半に参加することになるのです。
例えば姉川の戦いにおいては旗本一番槍の戦功をあげ、三方ヶ原の戦いや長篠の戦い、小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めるといった栄誉を賜っています。
また武田勝頼と戦った長篠の戦いにおいては、山本勘助の嫡子・菅助を討ち取ったことでも知られています。
天正18年(1590年)、徳川氏が三河から関東地方に移封されると、武蔵国比企郡に3,000石を与えられました。
慶長5年(1600年)には長年の功績を賞せられ、1,000石を加増されています。
慶長13年(1608年)、家康の直命によって尾張藩主に封ぜられた家康の九男・徳川義直の付家老に転じられ、幕府よりさらなる加増を受けて、1万4,000石を領して寺部城を居城としました。
また戦国最後の大戦であった大坂の陣にも参加。
これに出陣した藩主・義直の初陣を後見しています。
そして元和6年(1620年)に名古屋で死去。享年79でした。