北条宗時【石橋山の戦いに散った、時政嫡男】
北条宗時とは平安時代末期の武将。
鎌倉幕府第2代執権である北条義時の実兄で、北条時政の嫡男です。
治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役の一つ、石橋山の戦いにて討死しました。
生年 | 不詳 |
没年 | 1180年9月14日(治承4年8月24日) |
別名 | 幼名:若王丸 通称:三郎 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 北条氏 |
家紋 | 三つ鱗 |
親 | 父:北条時政 母:伊東入道の娘 |
兄弟 | 宗時 政子 義時 時房 政範 阿波局 時子 他 |
来歴
頼朝挙兵
北条宗時は伊豆国の豪族であった、北条時政の嫡男として生まれました。
生年はわかっていません。
父である北条時政は、伊豆に流された源頼朝の監視役であったものの、娘である政子と頼朝が恋仲になり、これを認めて妻となったことで後援者という立場に変化していたとされます。
そのため北条氏は頼朝にとって、平氏打倒における挙兵の中心となっりました。
1180年(治承4年8月17日)、伊豆目代であった山木兼隆邸襲撃の際に、父・時政や弟・義時らと共にこれに加わり、部隊を先導したといわれています。
目代とは遙任国司が現地に私的な代官派遣した、家人などの代理人のことをいいます。
ここで出てくる山木兼隆は平兼隆といって、つまるところ平氏の一人でした。
ちなみに時政は娘の政子と兼隆を進めていたのにも関わらず、ちょっと伊豆を留守にしている間に娘を頼朝にとられてしまっていたとか。
以仁王の令旨を受け挙兵した頼朝は、宗時らと共に兼隆の館を急襲し、これを討ち取ることになります。
石橋山の戦い
頼朝は目代の山木兼隆を打倒したものの、兵力は乏しく伊豆一国を掌握することはできず、やがて平氏方の反撃があるであろうことは疑いようもありませんでした。
頼朝は300騎をもって伊豆より相模国に進出し、23日に石橋山に陣を構えます。
一方の平氏方は大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率い、迎撃の構えをみせました。
頼朝が当てにしていた三浦一族の援軍が到着する前に片を付けるべしと判断した景親は、夜戦にて一気に決着をつけることとし、決戦に至ったとされています。
『吾妻鏡』によれば、彼我兵力は300対3,000。
10倍の兵力が相手であり、多勢に無勢でした。
結果、頼朝勢は大敗を喫します。
大庭勢は潰走する頼朝勢を猛追し、しかし頼朝勢も激しく抵抗しました。
結局頼朝一党は散り散りになって逃亡することになるのですが、宗時の父親である時政と、弟の義時は甲斐に向かって逃げたといわれています。
そして宗時は二人と分かれて別路から脱出を図ったようなのですが、これが運命の分かれ道となって、道中で伊東祐親の軍勢に囲まれた挙句、小平井久重に射られて討たれました。
その宗時を討ち取った伊東祐親ですが、別名は伊東入道。
宗時の母親の父親に当たる人物であり、つまり宗時にとって祖父でした。
時は過ぎて1202年(建仁2年6月)、時政は夢にてお告げがあったとし、宗時の菩提を弔うために伊豆国北条に下向したとの記録が残されています。
現在は函南町の函南駅周辺に、宗時の墓所が存在しています。
石橋山の戦いで戦死した宗時ですが、異説も残っており、16歳の時に出陣した戦場で右腕を切り落とされたため、家臣とともに信濃国安曇郡の仁科氏領へ隠居し、同地で没したというという伝説です。
その場所は北条屋敷として地名が残っているそうで、若宮社として祀られています。