鎌倉時代

三善康信【鎌倉殿の13人が一人、鎌倉幕府初代問注所執事】

 三善康信とは平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。
 鎌倉幕府における初代問注所執事を務めたことで知られる。
 入道後、善信と名乗った。

三善康信(みよし の やすのぶ)
生年1140年(保延6年)
没年1221年8月27日(承久3年8月9日)
改名三善康信⇒善信
幕府初代問注所執事
氏族三善氏
父:三善康光
康俊 行倫 康連

三善康信とは

由羅
由羅
えっと、三善康信って……誰?
鎌倉時代初期に活躍した人物だよ
イリス
イリス
由羅
由羅
でも武将……というわけじゃないんだよね?
貴族、つまり公家だね
イリス
イリス
由羅
由羅
鎌倉幕府っていうと、武家の政権……ていうイメージがあるけれど、どうして公家の名前が出てくるの?
鎌倉幕府の創設者である源頼朝の関係者だったからだよ。あと、十三人の合議制の一人だね
イリス
イリス
由羅
由羅
ああ、なるほど。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の一人ってわけだね!
そういうこと
イリス
イリス

三善康信とは

 三善康信は1140年(保延6年)の生まれで、父親は三善康光、または康久とされている。

康信は太政官の書記官役を世襲する下級貴族で、算道の家柄の出身だったそうだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
算道?
日本律令制の大学寮において、算術を研究する学科のことだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
算術って……むかしからそんなのあったんだね
もちろん。じゃないといろいろ不都合だからね
イリス
イリス

 康信の母親は源頼朝の乳母の妹という関係があり、そのような縁もあって伊豆国に流罪となっていた頼朝へと、京の情報を送る役割を担っていたと言う。

由羅
由羅
なるほど。頼朝とはそういう関係がまず初めにあったんだね
うん。だから康信は、月に三回は京の情勢を頼朝に報せていたそうだよ
イリス
イリス

 1180年(治承4年)、以仁王が挙兵。治承・寿永の乱が勃発する。

由羅
由羅
この以仁王の挙兵が、いわゆる源平合戦の始まりなんだよね
うん。でも以仁王や源頼政が計画した打倒平氏のための挙兵は、結局事前に露見して失敗し、全国の源氏に対して追討の動きが生まれることになるんだよ
イリス
イリス

 この時康信は頼朝に対して使者を送り、いち早く奥州に逃げるように伝え、のちの頼朝挙兵に大きな影響を与えたとされている。

 1184年(元暦元年)、康信は頼朝に鎌倉へと呼ばれ下向し、鶴岡八幡宮の廻廊で対面したとされる。
 頼朝は康信に鎌倉へと移り住み、武家の政務の補佐をするよう依頼。
 康信はこれを承諾したという。

由羅
由羅
なるほど。頼朝自身に頼まれて、わざわざ京から鎌倉に来たんだね
そういうこと。そして同年の10月には「公文所」が新設されて、大江広元がその長官に任命される一方で、康信は問注所の執事に任命されたんだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
問注所?
鎌倉幕府や室町幕府に設置された、訴訟事務を所管する機関のことだよ。まあ裁判所みたいなものかな
イリス
イリス
由羅
由羅
その初代の執事、つまり長官を康信は任されたってわけなんだね
うん。ちなみに当時は治承・寿永の乱の真っ最中。まあこんな大規模な内乱状態ということもあって、訴訟問題もたくさん発生していたそうだよ。これを迅速に処理することで、鎌倉の存在感を増すことにも繋がったはずだから
イリス
イリス
由羅
由羅
重要な役どころだったわけだね!

 この問注所執事は鎌倉や室町期を通して、三善氏が世襲していくことになる。

 源頼朝が死去すると、代わってその嫡男であった源頼家が第2代鎌倉幕府征夷大将軍となったものの、その独裁ぶりに周囲は危惧を抱くことになる。
 そのためにそういった御家人の代表として十三人の合議制が発足し、康信もこれに参加した。

 そして1221年(承久3年6月)には鎌倉幕府の危機である承久の乱が勃発し、康信はこの時病身であったものの会議に加わり、大江広元の即時出兵論を支持する。

 結果的に承久の乱は鎌倉幕府の圧勝に終わり、8月6日には問注所執事を辞職。
 そして8月9日に死去したという。