淀殿とは戦国時代から江戸時代初頭にかけての女性。本名の浅井茶々の名でも知られている人物。
三英傑の一人の織田信長の姪にあたり、また三英傑の一人である豊臣秀吉の側室でもあり、北近江の戦国大名・浅井長政の娘でもある。
末の妹である浅井江は三英傑の一人である徳川家康の息子である徳川秀忠に嫁いでおり、次女である浅井初を含めて浅井三姉妹と称し、戦国時代において数奇な運命を辿った女性の典型として、現代に伝わっている。
大坂城落城の際に自害して果て、豊臣家滅亡と共に戦国時代を終わらせることになった人物である。
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生年 | 1569年(永禄12年) |
没年 | 1615年(慶長20年5月8日) |
別名 | 菊子 |
家紋 | 三盛亀甲に花菱(みつもり きっこうに はなびし) |
親 | 父:浅井長政 母:お市の方(織田信長妹) |
兄弟 | 万福丸 万寿丸 初 江 くす 刑部卿局 |
夫 | 豊臣秀吉 |
子 | 鶴松 秀頼 |
淀殿とは








小谷城落城
浅井茶々は1569年(永禄12年)、近江の戦国大名の浅井長政の娘として、近江国小谷にて誕生した。
母親は尾張の戦国大名・織田信長の妹である、お市の方。
父・長政は織田氏と結び、織田家当主である織田信長の妹・市を妻に迎え、同盟する。




このことから浅井氏は長政の代で最盛期を迎えるのが、のちに浅井氏の曽祖父の代からの盟友・朝倉氏と織田氏が争うようになり、金ヶ崎の戦い以降、浅井氏は朝倉氏と共に織田氏と敵対する道を選んだ。
しかし1573年(天正元年)、織田氏に攻められ浅井氏の居城であった小谷城は落城。
父・長政や祖父・久政は自害し、兄の万福丸は捕らえられて処刑され、浅井氏はここに滅亡した。
茶々は母・市や妹の初や江らと共に落ち延び、織田氏家臣であった藤掛永勝に救出されたという。
その後は織田信包や織田信次らに預けられていたといわれている。
北ノ庄城落城
それから九年後、1582年(天正10年)には本能寺の変が勃発し、伯父であった織田信長は明智光秀によって討たれ、横死。
茶々の母である市は織田家重臣であった柴田勝家と再婚し、茶々は妹達と共に母に従って、越前国の北ノ庄城へと入った。
ところが勝家は羽柴秀吉と対立したことで、1583年(天正11年)に賤ヶ岳の戦いが起こり、これに敗北。
勝家や市は自害し、北ノ庄城は落城する。
茶々は落城の際、妹達と共に逃がされて秀吉の保護を受けたとされている。
この頃の茶々達の所在などは正確には分かってはいないが、叔父である織田長益に庇護されて安土城にいたとか、伯母の京極マリアの縁を頼って聚楽第にいたとか、複数の説があるといわれている。




豊臣秀吉の側室として
1588年(天正16年)頃に、茶々は秀吉の側室になったとされている。
翌年の1589年(天正17年)に、茶々は鶴松を懐妊。
茶々の解任を喜んだ秀吉により、山城淀城を与えられ、産所とされた。






この城にて鶴松は誕生するものの、1591年(天正19年)に死去してしまう。
しかし茶々は1593年(文禄2年)、拾(のちの豊臣秀頼)を産み、秀吉の寵愛を受けた。
その秀吉が1598年(慶長3年)に死去すると、秀頼の後見人として政治に関与し、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね。茶々の乳母)や饗庭局(あえばのつぼね。浅井氏一族)を重用し、淀殿は豊臣氏での実権を得たといわれている。
関ヶ原の戦い

『関ヶ原合戦図屏風』
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発した。
これはかつて五奉行の一人であり、豊臣政権の中核を担っていたものの失脚していた石田三成が大谷吉継らと共に、会津征伐のために出陣した徳川家康に対して挙兵したものである。
この際に淀殿は、これを謀反として家康や毛利輝元に対し、大坂に至急戻るようにと書状を送ったとされている。
しかし輝元や三奉行(増田長盛、長束正家、前田玄以)らは三成に同調し、茶々はこれらの動きを容認しつつも三成が望んだ秀頼の出陣などは認めず、豊臣家としてはあくまで静観する姿勢をとることになったという。
この時、先に淀殿から家康へと送られた書状は家康に秀頼の為の戦い、という大儀名分を与えることになり、豊臣家臣が東西に分かれて決戦に及ぶことになった。
関ヶ原の戦いは東軍勝利に終わり、石田三成らは処刑され、徳川家康の影響力がますます増す結果となったのである。




大坂の陣

『大坂夏の陣図屏風風』
関ヶ原の戦い以後、家康は恩賞として豊臣家の領地を諸将に分配し、結果として豊臣家は一大名に転落した。




家康は大坂城を去り、淀殿は秀頼の後見人として大坂城を掌握するに至った。
しかし家康は1603年(慶長8年)に征夷大将軍に就任し、江戸に武家政権を樹立。
1605年(慶長10年)には秀頼に対し臣下の礼をとるように要求してくるも、淀殿はこれを拒否。
家康は松平忠輝を派遣して融和に努めるものの、豊臣家との対立姿勢が徐々に露わになっていく。
そして1611年(慶長16年)には、京都二条城において秀頼と家康による二条城会見が行われた。
同年に浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正らが、1613年(慶長18年)には池田輝政や浅野幸長、1614年(慶長19年)には前田利長が死去し、豊臣家は孤立を深めていくことになる。




そして1614年(慶長19年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣、徳川の対立は決定的となり、大坂の陣が勃発した。
茶々も武具を着込み、大坂城に集った武士達を激励したといわれている。
しかし大坂城に集ったのは真田信繁や毛利勝永、後藤又兵衛といった全国の牢人のみで、各大名家の加勢はありませんでした。
まず始まった大坂冬の陣においては、真田丸の戦いに勝利するものの、大坂城に徳川方の砲撃を受けて講和を指示。
翌年の1615年(慶長20年)にはすぐにも再戦となり、いわゆる大坂夏の陣においてその最終決戦であった天王寺・岡山の戦いに敗北したことで、大坂城は陥落。
秀頼や重臣の大野治長らと共に自害して果てた。


名前
茶々は一般的に淀殿という名前でも知られている。
本名は浅井茶々で、これは生涯を通して名乗った名前である。


また菊子という名前も持っていが、これは朝廷より官位を賜った際に授かった名であり、公の場で用いられたもう一つ名前である。


茶々にまつわる伝承
大坂の陣にて死去したのが定説であるが、生存説もあるようで、島津氏を頼って薩摩国に逃れたという伝承も残っている。
秀吉はお市の方に憧れており、茶々が母親と似ていたため側室に迎えたともいわれている。






一方で、母親であるお市の方は戦国一の美女として謳われたが、その娘であった茶々はどちらかというと父親の浅井長政似で、美女ではなかったのではないかという説もある。








子供のできなかった秀吉との間に秀頼をもうけたことで寵愛された淀殿ではあるが、乳兄弟であった大野治長との密通が当時から噂されており、秀頼は秀吉との子ではなく、治長との子ではないかともいわれている。


また秀頼に対しては過保護であったともされ、秀頼は大坂の陣においてもついに一度も出陣することなく、自害に至ったという。
淀殿画像
