終ノ刻印 第二章 最強の王編 第74話
/黎
夜になって。
わたしはそっと、その場を訪れていた。
隣の部屋。
この事務所を徐々に覆っていく、冷気の源。
その結界された空間は、すでに凍っていた。
中心に、氷漬けにされた妹の姿がある。
やはり、その身に剣を受けて。
その姿はこれまで幾度と無く見てきた。
何も変わってはいない。
しかし、変わったものもある。
それはわたしの心境――この子を見る、わたしの気持ちが、違う。
この憎悪の空間にいても、全くあてられない。
むなしさでいっぱいだから、だろうか。
「……どうして、どうしてわたしを殺さなかったの」
理由など分かっている。
それは、この子がユラだから。
それ以外の何ものでもない。
正直に、羨ましかった。
その変わらない純粋さに。
更に一歩、ユラに近づこうとしたところで。
「……ふうん?」
声が、した。
「――――?」
振り返る。
そこには見慣れない少女。――いや。
「お邪魔するわ」
そうとだけ言うと、少女は真っ直ぐにこちらに向かって歩いてくる。
「――――あなた」
わたしは知っている。
この少女のことを。
しかしその少女は何も応えることなく、ユラの目の前まで歩み、そして足を止めた。
「まったく……またこんな姿になって。手間が増えちゃったじゃない」
唇を尖らせて、そっと手を伸ばす。
ユラに突き刺さった、氷の剣に。
「な……」
わたしは目を疑った。
抜ける。
あっさりと、身体から。
「う、そ……?」
信じられなかった。
その剣を抜ける者など限られている。わたしの知る限り、三人しかいないはずなのだ。この少女のことは知っているが、しかしその三人の中には入っていない。
そんなわたしの心境などお構いなしに、少女は抜き放った剣をまじまじと見つめた。
その目前で、氷が砕け散り、一気に崩れていく……。
「氷涙の剣、か。死神の鎌といい、持ち主を選んだり、対象を選んだり……。どうして観測者の作る武器というのは、こうも使いにくいものばかりなのかしらね」
つぶやいて、剣を軽く振ってみせる。
「ねえ? そう思わない?」
言うなり、無造作に剣を投げつけた。
「――――!?」
完全に虚を突かれたわたしは、為す術なくそれを受けてしまう。
「か……あ……!?」
一撃を受けたわたしは、その衝撃で壁際まで吹っ飛んだ。
背をしたたかに打ち付け、喀血する。
「ほうら。あなただと、全然凍ったりしないものね?」
つまらなげにそう言うと、一歩進んでしゃがみ込み、倒れているユラへと手を伸ばした。
「起きなさい。こんなところで寝ていては、風邪をひいてしまうわ」
その言葉に。
「あ……え……?」
当たり前のように、ユラは目覚めた。
「なに……?」
「ぼんやりしないの。起きなさい、由羅」
「ん……あ。アルティージェ……?」
「そうよ」
微笑み頷いて、少女――アルティージェはそっと、ユラを助け起こす。
「まったくあなたときたら、優しすぎるわ。あんなのに情けをかけてしまうのだから」
「あんなのって…………な」
驚いた顔で、ユラがこちらを見た。
「ジュリィ……!? な、なんで」
剣を腹に受け、溢れる出血の中に倒れるわたしを見たユラは、慌てて駆け寄ろうとする。
――それを、
「駄目よ」
アルティージェは押しとどめた。
「どうして……!?」
「どうしてって。いい加減もう邪魔でしょう? わたしもあの女は嫌いだし、ちょうどいい機会だものね」
「で、でも……っ!!」
「由羅」
ふっと、アルティージェはユラの耳元で、何事かささやく。
「殺してしまいなさいな。どうせもう、放っておいても死ぬしね? だったらあなたの手でしてあげるのが、一番だと思うの」
妖艶に、そう告げる。
それは一見、ただの言葉。
けれど違う。
言霊だ。
一瞬にしてあてられたユラの顔から、表情が消える。
あっさりと、精神を支配されてしまう。
そして、ユラはこちらを見た。
「ほら」
促されるまま、歩を進める。
わたしを殺そうと、歩んでくる。
「…………」
別に、構わなかった。
死ぬことなど、別段怖くはない。
ただ一つ思い残すことがあるとすれば……。
苦笑する。
違う。二つだった。
一つはエクセリア様のこと。
もう一つは、最後の最後までわたしに反対し続け、なのに協力してくれた、あのお人好しの真斗のこと。
彼は、わたしが死ぬことすら嫌がっていた。
ここで死ねば、どんな顔をするだろうか。
しかも、ユラに殺されるなんてことに。
その思わぬ未練に、おかしくなる。
自分は本当に、死を覚悟していたのだろうか、と。
ユラが、目前に迫る。
その手がわたしを掴み上げようと伸ばされたところで。
「――何をしている」
新たな声が、割り込んだ。
ユラが飛び退く――その空を、短剣が薙ぐ。
九曜さん……?
「あら」
現れた九曜さんに、アルティージェは小さく声を上げた。
そして笑う。
「誰かと思ったら……」
「お前は誰だ?」
わたしの前に立ち塞がり、警戒もあらわに九曜さんはアルティージェとユラを睨みつけた。
「誰? そう。記憶までは無いの。残念ね」
アルティージェはそうつぶやくと、左手を真横へと上げ、その瞬間光が溢れる。
「――――!?」
咒法の爆発――いや、違う。これはユラと同じ力だ。規模は極端に抑えてあるものの、もっと洗練された……。
その余波が収まると、部屋の壁に大きな穴が空いていた。
「あなたとはまたじっくりお話したいけれど、このままゆっくりしているとみんな集まってきそうだものね。せっかくエクセリアのいない時を見計らって来たのだし。だから今夜は由羅をもらうだけにしてあげる」
「なにを……?」
「じゃあね。おいで、由羅」
こくりと頷いて、ユラはアルティージェの後へと続く。
「この……!」
思わず追おうとした九曜さんだったが、踏みとどまった。
――わたしがいたからだ。
「黎――」
「いい、から」
この時わたしは、ほとんど意識を失いかけていた。
だから、冷静に判断できなかった。
「わたしは、いいから……。あの子を、追って。お願い……」
「――だけど」
「お願い……。あの子を、返して……」
その時のわたしは、どこまでも身勝手な願いをしてしまったのだ。
「――わかった」
九曜さんは頷いてくれて。
それを見て、わたしは意識を手放す。
その後のことはもう、分からなかった。
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