朝倉高景 ~越前朝倉氏の基礎を築いた、第2代当主

朝倉高景 ~越前朝倉氏の基礎を築いた、第2代当主

 朝倉高景とは南北朝時代から室町時代にかけての武将であり、越前朝倉氏の2代目当主。

朝倉高景(あさくら たかかげ)
三盛木瓜
生年1314年(正和3年)
没年1372年(文中元年/応安5年)
改名彦三郎⇒正景⇒高景
別名孫次郎
家紋三盛木瓜(みつもりもっこう)
父:朝倉広景
兄弟高景 中野愚谷 松尾宗景
氏景 阿波賀茂景 向久景 三段崎弼景

朝倉高景とは

朝倉高景とは越前朝倉氏の第2代の当主となった人物だよ
イリス
イリス
由羅
由羅
これまたマイナーな武将だよね。時代もやっぱりまだまだ戦国時代には程遠いし
朝倉氏がどういう経緯で越前に土着して、繁栄の基礎を作り、やがてどうやって発展していったのを知るには、歴代当主のことを順に見ていくのが確実だから
イリス
イリス
由羅
由羅
そうだよね。なので今回は朝倉高景について!

略歴

 1314年(正和3年)に朝倉広景の子として誕生。
 父・広景は非常に長命で、広景の生年からすると高景は60歳近い時の子ということになる。

由羅
由羅
60歳って
元気な父親だったんだね
イリス
イリス
由羅
由羅
そういう問題……?
広景は98歳まで生きているから、60歳なんて人生の途中に過ぎなかったってことだね
イリス
イリス
由羅
由羅
当時としてはすっごい長生きだよね……。現代でも十分長生きの範疇に入っちゃうもの
 朝倉氏はもともと但馬国の出であったが、鎌倉幕府の滅亡に際して斯波高経に従って越前国に入り、広景の代から越前国に根ざすことになった。
 高景もまた父親同様、斯波氏に家臣として仕えていたという。

 1355年(文和4年)に起きた東寺南大門での合戦では、南朝側の3万もの大軍を打ち破り、足利尊氏よりその名をもらって(尊氏は初め高氏と名乗っていた)高景と名を改める。

高景は最初、正景という名前だったから。高景と名を改めた頃に、遠江守高景と名乗るようになったみたいだね
イリス
イリス
由羅
由羅
「高」の字を、ということは、足利氏お得意の偏諱ってやつだね
でもこの話はちょっと怪しいの
イリス
イリス
由羅
由羅
どうして?
高景は東寺南大門での合戦で功を上げたわけだけど、相手は南朝方。そして足利尊氏も南朝方。その敵だった尊氏から名前をもらうって、おかしいでしょ?
イリス
イリス
由羅
由羅
ほんとだ! よく聞くと変な話だね
だから実際には足利尊氏ではなくて、高景の直接の主君であった、斯波高経からもらったんじゃないかっていわれているんだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
その方がしっくりくるものね
 その後、1357年(正平12年/延文2年)には、尊氏より足羽荘預所職をあてがわれている。

貞治の変

 1366年(正平21年/貞治5年)の貞治の変において、高景は室町幕府軍の一員となり、主家であった斯波高経に反旗を翻すことになる。

 高景は杣山城を攻め、その功績により、室町幕府第2代将軍・足利義詮から越前宇坂荘、棗荘、東郷荘、坂南本郷、河南下郷、木部島、中野郷など7ヶ所の地頭職を賜って基盤とし、越前朝倉氏の基礎を築くことになった。

貞治の変により斯波高経が失脚したことで、畠山義深が新しい越前守護となっていたんだけど、高景はこれに完全に従わず、幕府との関係を背景にして、独自の立場を作っていったみたいだね
イリス
イリス
 そして1372年(文中元年/応安5年)に死去。享年59。

 その家督は子の氏景(大功宗勳)が継ぐことになる。

朝倉家歴代当主

 第1代 朝倉広景 1255年~1352年
 第2代 朝倉高景 1314年~1372年
 第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
 第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
 第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
 第6代 朝倉家景 1402年~1451年
 第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
 第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
 第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
 第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
 第11代 朝倉義景 1533年~1573年