鳥居忠吉 ~三河武士の根底を作り上げた忠臣

鳥居忠吉 ~三河武士の根底を作り上げた忠臣

 鳥居忠吉とは戦国時代の武将。三河松平氏(徳川氏)の家臣。
 鳥居元忠の父として知られている。

鳥居忠吉(とりい ただよし)
鳥居笹
生年不詳
没年1572年(元亀3年3月25日)
主君松平清康⇒松平広忠⇒徳川家康
氏族鳥居氏
家紋鳥居笹
鳥居忠明
忠宗 本翁意伯 元忠 忠広
娘(三宅政貞室) 娘(松平重勝室) 本多重次正室

鳥居忠吉とは

由羅
由羅
鳥居忠吉っていえば、伏見城の戦いで玉砕して果てた、鳥居元忠の父親、だね
うん。その通り。元忠は家康への忠誠無比で知られているけれど、父親である忠吉もそれに勝るとも劣らない忠義の人として知られているね
イリス
イリス
由羅
由羅
いわゆる三河武士の典型、みたいな?
そう。家康を支えた三河武士の根底を作った人物では、とされているが忠吉だからね
イリス
イリス

来歴

  父親は鳥居忠明。鳥居忠吉の生年は分かっていない。

ただ死去した際の年齢が80歳程度だったとされているから、文明から明応年間にあたる、15世紀末の生まれであると推定されているよ
イリス
イリス

 忠吉は三河国の戦国大名であった、松平清康に仕えた。

忠吉はずっと松平家に仕えていた譜代家臣の家系、というよりは、清康が岡崎城に入った際に使えるようになった、いわゆる岡崎譜代、と呼ばれる家臣層であったと考えられているの
イリス
イリス

 しかし清康は1535年(天文4年)、家臣の阿部正豊に斬られ横死。
 いわゆる森山崩れが発生する。

 この事件を機に松平宗家は分家の松平信定に対抗できないほど弱体化。
 清康の跡を継いだ松平広忠は、駿河の戦国大名・今川氏の傘下に入り、命脈を保つことになる。

 しかし広忠もまた暗殺されて死去。
 子の竹千代(徳川家康)はまだ幼く、その身柄は駿府へと預けられることとなり、松平氏の居城であった岡崎城は今川氏の管理化に置かれることになった。

 この間、岡崎には今川氏より城代が派遣されたが、実際の統治は忠吉や阿部定吉によって成立していたという。

由羅
由羅
じゃあ今川の城代って何してたの?
名目上は今川の管轄下、ということにしていたんだと思うよ。だから実際には働かなかった、というわけ
イリス
イリス
由羅
由羅
天下りして働かない元官僚、みたいな感じだね。偏見だけど

 しかし領地からの収穫は今川氏への分配もしなくてはならず、松平一党はその日の生活にも困窮するようになったといわれている。

 そのような財政難の中、それでも忠吉は将来に家康が岡崎に帰参する日に備えて倹約・蓄財した。

由羅
由羅
働かないけど取るものは取るんだね~
でも実務に関わっていなかったからこそ、忠吉らが倹約に励むこともできた、ともいえるかもしれないね
イリス
イリス

 そして阿部定吉が死去すると、松平の家臣団は忠吉を中心にさらに結束。
 非常に貧しく苦しい中でもいざ合戦となれば、勇猛な戦いを見せつけたといわれている。

この忠誠心こそ、後世に三河武士としての名声を知らしめることになるのだけど、その根幹は忠吉によって植えつけられたといっても過言ではなかったんだよ
イリス
イリス

 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いが今川氏と織田氏の間で勃発した。

 織田信長の急襲を受けた今川義元は討死し、これを機に徳川家康は岡崎城へ入り、独立。

 その際に忠吉はこれまで溜め込んだ財を見せて、家康に感謝されたという。

由羅
由羅
いったいどれだけ溜め込んでいたんだろうね?
記録に残るくらいだから、それなりのものだったんじゃないかな
イリス
イリス
由羅
由羅
こういう人にこそ、現代の財務を預かってもらった方がいいんじゃない?
……どうかな? 確かに財政難は改善するかもしれないけれど、それは痛みを伴う改革だから。国民は三河武士のように忠臣、というわけでもないし、行き過ぎた倹約は不満を生むだけ。のちの江戸時代にあった、寛政の改革があまりうまくいかなかったのも、行き過ぎが原因の一つだし
イリス
イリス
由羅
由羅
なるほど……。三河武士だからできた、っていうわけなんだね
これができたから三河武士になった、ともいえるかもね。とはいえ勇猛で忠臣ばかりの三河武士だけど、頑固で融通が利かず、家康もこれをまとめるのに苦心したそうだから、一長一短は何にでもある、ということかな
イリス
イリス

 この頃にはすでに高齢となっていた忠吉は、その後岡崎城の留守を守ったという。

 忠吉の忠義ぶりは朝廷にも知られていたようで、『言継卿記』に記述が残されている。

 そして1572年(元亀3年)に死去。

 忠吉の長男は1547年(天文16年)の渡の戦いで討死しており、次男の本翁意伯は出家。
 そのため三男であった元忠が家督を継承した。

 鳥居元忠も父同様、忠臣として知られ、1600年(慶長5年)の伏見城の戦いにおいて玉砕し、三河武士の鑑と評されることになる。