鳥居元忠 ~三河武士の鑑、伏見城玉砕

鳥居元忠 ~三河武士の鑑、伏見城玉砕

 鳥居元忠とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。下総矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。
 関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで玉砕して果て、その忠節ぶりから「三河武士の鑑」と称された。

鳥居元忠(とりい もとただ)
鳥居笹
生年1539年(天文8年)
没年1600年(慶長5年8月1日)
改名彦右衛門尉
主君徳川家康
氏族鳥居氏
家紋鳥居笹
父:鳥居忠吉
兄弟忠宗 本翁意伯 元忠 忠広
女(三宅政貞室)
正室:松平家広の娘
側室:馬場信春の娘
康忠 忠政 成次 忠勝 忠頼 忠昌
娘(土岐定政室) 娘(戸沢政盛室)

鳥居元忠とは

由羅
由羅
鳥居元忠といえば、やっぱり伏見城の戦い、だよね!
そうだね。でも他の事跡は知っている?
イリス
イリス
由羅
由羅
え? えっと、その……
伏見城のことばかりが美談として語られているから、そればかりに目がいってしまうのは仕方がないことだけどね
イリス
イリス
由羅
由羅
そうかもしれないね。反省
伏見城自体が観光名所として有名で、尚且つそれに関連した『血天井』、あとはNHKの大河ドラマで徳川家康絡みのものではけっこう出演していたり、あと天下分け目の合戦である関ヶ原の戦いの前哨戦、という意味でも伏見城の戦いは有名だから、鳥居元忠の名が知られた道理、ということだね
イリス
イリス
由羅
由羅
他の活躍は?
あるよ。有名どころでいえば、上田合戦にも関わっているし。まあ負け戦さだからあまりクローズアップされてはいないけれどね
イリス
イリス

家督相続

 鳥居元忠は1539年(天文8年)に、鳥居忠吉の三男として誕生した。

 父・忠吉は岡崎奉行などを務めた老臣であり、その子の元忠も徳川家康がまだ幼少であった人質の頃から側近として仕え、1551年(天文20年)より近侍したとされている。

父親である鳥居忠吉は今川統治下にあった岡崎城で実際に領地を経営し、蓄財して、家康が独立する際にはその足掛かりとなったんだよ
イリス
イリス
 桶狭間の戦いを機に今川氏より独立した家康は、その後三河国を統一。

 その後、元忠は旗本先手役となって、旗本部隊の将として戦った。

 1572年(元亀3年)に父・忠吉が死去。
 長兄の忠宗は1547年(天文16年)の渡の戦いで討死しており、また次兄の本翁意伯は出家していたこともあり、父の死去に伴い鳥居家の家督は元忠が継承することになる。

各地を転戦

 1558年(永禄元年)には寺部城攻めに参加。

 1570年(元亀元年)には朝倉浅井連合軍と戦った姉川の戦いに参戦。

 1572年(元亀3年)には武田信玄に西上作戦による三河侵攻が開始され、三方ヶ原の戦いに出陣。

 諏訪原城合戦においては斥候として敵陣侵入を試み、発見されて銃撃され、足を負傷したとされている。
 これにより多少の障害を残すことになったという。

 1575年(天正3年)には長篠の戦いに参加し、石川数正と共に馬防柵の設置を担当。

 1581年(天正9年)には高天神城の戦いに参加。

 武田氏が滅亡し、さらには織田氏当主であった織田信長が本能寺の変で没すると、1582年(天正10年)に武田氏遺領を巡って天正壬午の乱が勃発。

 黒駒合戦において家康の背後を襲うとした北条氏忠・氏勝軍10,000を、甥の三宅康貞・水野勝成ら2,000の兵をもって撃退し、北条軍300を討ち取る功を挙げたという。

 これにより戦後、甲斐国都留郡の地を与えられて、まず岩殿城に入り、やがて谷村城主となった。
 この地は後北条氏と国境を接する地であったため、重臣であった元忠が配置されたと考えられている。

由羅
由羅
こうしてみると、家康が関わった主要な戦にはほとんど参加していたんだね
そういうこと。伏見城の戦いだけじゃないんだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
そしてお次は上田合戦、だね

第一次上田合戦

 天正壬午の乱により、徳川氏は北条氏と争っていたものの、和睦。

 この和睦の条件として、真田氏の上野沼田領と信濃佐久郡を交換することが取り決められたが、真田氏はこれを拒否し、家康と敵対していた上杉氏に通じることになる。

 1585年(天正18年)、真田氏当主・真田昌幸の造反を知った家康は真田討伐軍を起こし、鳥居元忠を初め、大久保忠世、平岩親吉らを真田氏本拠・上田城に派遣した。

これがいわゆる第一次上田合戦で、昌幸の巧みな戦術の前に徳川軍は撃退されてしまったんだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
真田昌幸の名声を上げた一戦だものね。残念ながら元忠は、この時は昌幸にしてやられてしまったわけなんだ

小田原征伐

 1590年(天正18年)には豊臣秀吉による小田原征伐が開始され、元忠もこれに参加し、岩槻城攻めに加わった。

 小田原征伐により後北条氏は滅亡。
 家康は戦後、北条氏の遺領であった関東に移封され、元忠は下総国矢作城4万石を与えられることになる。

 この地は常陸の佐竹氏や東北地方の大名に対する備えとなる地であり、元忠には強い支配権限が与えられていたという。

関ヶ原の戦い

 1600年(慶長5年)、家康は上杉景勝討伐の軍をあげて、会津征伐が開始される。

 この時、元忠は伏見城を任されることになった。

 これは家康の出征により、変事が起こった際には城兵の玉砕は不可避であり、それを覚悟した上で元忠は伏見城を預かったという。
 家康も出立前に伏見城に泊まり、元忠と酒を酌み交わし、その席で元忠は、

「殿が将来天下を取るためには一人でも多くの家臣が必要であり、何かあった際には伏見城は玉砕を覚悟しており、ならば多くの人数を城に残すことは無駄となるため、一人でも多くの家臣を連れていって欲しい」

 と言ったとされる。
 これに家康は喜び、深夜まで酒を酌み交わして別れを告げたという。

 果たして家康が会津征伐に出陣すると、石田三成が挙兵。

 石田方にまず狙われたのは伏見城であり、後の関ヶ原の戦いの前哨戦となった。

 元忠は自身を総大将に、その他松平家忠、松平近正、内藤家長、佐野綱正、安藤定次らと1,800人と兵と共に伏見城に籠城する。

この時、元忠は三成からの降伏勧告を使者を斬殺して送り返しているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
うわ。戦う気満々だね。でもそういうのってどうなの?
戦でも外交の使者は斬らない、という倣いのこと?
イリス
イリス
由羅
由羅
うん。よく言うじゃない?
状況によりけりかな。でも普通はあまり斬らないね。武将といっても平時は政治家であるし、使者を斬って外交ルートを自ら閉ざすなんていうのは愚の骨頂。何より礼儀にかなっていないから
イリス
イリス
由羅
由羅
じゃあ元忠のこの行動はどうなの?
不退転の意思を内外に知らしめるため、だと思うよ。元より玉砕覚悟だったから
イリス
イリス
由羅
由羅
玉砕かあ……。そういえば時折そういうの、あるよね。甲州征伐の際の高遠城の戦いとか
あれは使者を殺害はしていないけれど、えげつないことはしているしね
イリス
イリス
 対する西軍は宇喜多秀家を総大将に、実に4万もの大軍でこれを包囲。

 この時、家康より要請を受けていた島津義弘が兵1,000を連れて加勢を申し出るも、この話が元忠には伝わっておらず、入城を拒否されている。

由羅
由羅
あー、これもよく聞くよね。これで義弘怒っちゃって、逆に伏見城攻めに参加したっていう
一説ではね。これは『島津家譜』という江戸自体に成立した二次史料を典拠にしていて、実のところ史実であるという確証はないんだよ
イリス
イリス
 彼我の兵力差はかなりのものであったにも関わらず、元忠ら守備方は奮戦し、攻撃方は苦戦を強いられることになる。

 結局攻撃方は、城内にいた甲賀衆の妻子を捕らえ、内通を強制。
 これにより造反が発生し、城内で火が上がったことで支えることができなくなり、元忠は敵将であった鈴木重朝との一騎打ちの末、首を刎ねられ、討死した。享年62。

 元忠の首級は京橋口に晒されたという。

 元忠の忠節は「三河武士の鑑」と称され、伏見城の血染め畳はその忠義を賞賛した家康によって、江戸城の伏見櫓の階上に置かれたとされている。

鳥居元忠の人物像

 元忠は家康に対する忠臣として知られ、幾度も功を挙げながらも感状をもらうことは無かったとされている。

 感状は別の主君に仕える際に役立つものであったため、二君にまみえるつもりのなかった元忠は、自身には無用なものであるとし、受け取らなかったという。

 また豊臣秀吉から官位推挙の話が度々あったとされるが、家康と秀吉の二君に忠誠を尽くす術を知らず、自身は粗忽者であれば、秀吉に仕える器量は持っていないとし、これを断ったとされている。

 伏見城の戦いの際には、家康の元に退くなり逃げるなるすることも可能であったが、討死するまで戦うことが武士の志であり忠節であると述べ、玉砕に至ったとされている。

由羅
由羅
本当、元忠は忠誠無私な人物だけど、その分頑固で融通の利かない人物だった感じだね
うん。でも武田家が滅亡した際、馬場信春の娘を家康が側室にしようとして元忠に捜させたんだけど、首尾よく見つけた元忠はこれに惚れてしまって、家康には見つからなかった、と報告したことがあるらしいの
イリス
イリス
由羅
由羅
え? ええ?
結局バレたんだけれど許してもらって、信春の娘を妻に迎えることができたんだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
へええ……。忠誠よりも愛を選んだんだね!
人間らしいところもあった、ということだね。あとそれだけ家康の信任を得ていたということでもあるよ
イリス
イリス
 一方で思いやりもあったとされ、高天神城攻めの際に徳川軍は兵糧の到着が遅れて苦しんだ時があったが、家臣は周囲から略奪した飯を元忠に食べさせようとしたものの、兵が飢えているのに苦労を共にしなければ、どうやって功を挙げることが叶うだろうかと言って飯を投げ捨てたとも言われており、これを知った兵は感激して節義に励んだともいわれている。

 元忠はその逸話から猛将として知られているが、実際には情報収集も怠らず、ゆからぬ者(抜け目の無い者)と家康がら評価されていたという。

鳥居元忠画像

鳥居元忠