鳥居元忠とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。下総矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。
関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで玉砕して果て、その忠節ぶりから「三河武士の鑑」と称された。
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生年 | 1539年(天文8年) |
没年 | 1600年(慶長5年8月1日) |
改名 | 彦右衛門尉 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 鳥居氏 |
家紋 | 鳥居笹 |
親 | 父:鳥居忠吉 |
兄弟 | 忠宗 本翁意伯 元忠 忠広 女(三宅政貞室) |
妻 | 正室:松平家広の娘 側室:馬場信春の娘 |
子 | 康忠 忠政 成次 忠勝 忠頼 忠昌 娘(土岐定政室) 娘(戸沢政盛室) |
鳥居元忠とは
















家督相続
鳥居元忠は1539年(天文8年)に、鳥居忠吉の三男として誕生した。
父・忠吉は岡崎奉行などを務めた老臣であり、その子の元忠も徳川家康がまだ幼少であった人質の頃から側近として仕え、1551年(天文20年)より近侍したとされている。


桶狭間の戦いを機に今川氏より独立した家康は、その後三河国を統一。
その後、元忠は旗本先手役となって、旗本部隊の将として戦った。
1572年(元亀3年)に父・忠吉が死去。
長兄の忠宗は1547年(天文16年)の渡の戦いで討死しており、また次兄の本翁意伯は出家していたこともあり、父の死去に伴い鳥居家の家督は元忠が継承することになる。
各地を転戦
1558年(永禄元年)には寺部城攻めに参加。
1570年(元亀元年)には朝倉・浅井連合軍と戦った姉川の戦いに参戦。
1572年(元亀3年)には武田信玄に西上作戦による三河侵攻が開始され、三方ヶ原の戦いに出陣。
諏訪原城合戦においては斥候として敵陣侵入を試み、発見されて銃撃され、足を負傷したとされている。
これにより多少の障害を残すことになったという。
1575年(天正3年)には長篠の戦いに参加し、石川数正と共に馬防柵の設置を担当。
1581年(天正9年)には高天神城の戦いに参加。
武田氏が滅亡し、さらには織田氏当主であった織田信長が本能寺の変で没すると、1582年(天正10年)に武田氏遺領を巡って天正壬午の乱が勃発。
黒駒合戦において家康の背後を襲うとした北条氏忠・氏勝軍10,000を、甥の三宅康貞・水野勝成ら2,000の兵をもって撃退し、北条軍300を討ち取る功を挙げたという。
これにより戦後、甲斐国都留郡の地を与えられて、まず岩殿城に入り、やがて谷村城主となった。
この地は後北条氏と国境を接する地であったため、重臣であった元忠が配置されたと考えられている。






第一次上田合戦
天正壬午の乱により、徳川氏は北条氏と争っていたものの、和睦。
この和睦の条件として、真田氏の上野沼田領と信濃佐久郡を交換することが取り決められたが、真田氏はこれを拒否し、家康と敵対していた上杉氏に通じることになる。
1585年(天正18年)、真田氏当主・真田昌幸の造反を知った家康は真田討伐軍を起こし、鳥居元忠を初め、大久保忠世、平岩親吉らを真田氏本拠・上田城に派遣した。




小田原征伐
1590年(天正18年)には豊臣秀吉による小田原征伐が開始され、元忠もこれに参加し、岩槻城攻めに加わった。
小田原征伐により後北条氏は滅亡。
家康は戦後、北条氏の遺領であった関東に移封され、元忠は下総国矢作城4万石を与えられることになる。
この地は常陸の佐竹氏や東北地方の大名に対する備えとなる地であり、元忠には強い支配権限が与えられていたという。
関ヶ原の戦い
1600年(慶長5年)、家康は上杉景勝討伐の軍をあげて、会津征伐が開始される。
この時、元忠は伏見城を任されることになった。
これは家康の出征により、変事が起こった際には城兵の玉砕は不可避であり、それを覚悟した上で元忠は伏見城を預かったという。
家康も出立前に伏見城に泊まり、元忠と酒を酌み交わし、その席で元忠は、
「殿が将来天下を取るためには一人でも多くの家臣が必要であり、何かあった際には伏見城は玉砕を覚悟しており、ならば多くの人数を城に残すことは無駄となるため、一人でも多くの家臣を連れていって欲しい」
と言ったとされる。
これに家康は喜び、深夜まで酒を酌み交わして別れを告げたという。
果たして家康が会津征伐に出陣すると、石田三成が挙兵。
石田方にまず狙われたのは伏見城であり、後の関ヶ原の戦いの前哨戦となった。
元忠は自身を総大将に、その他松平家忠、松平近正、内藤家長、佐野綱正、安藤定次らと1,800人と兵と共に伏見城に籠城する。


















対する西軍は宇喜多秀家を総大将に、実に4万もの大軍でこれを包囲。
この時、家康より要請を受けていた島津義弘が兵1,000を連れて加勢を申し出るも、この話が元忠には伝わっておらず、入城を拒否されている。




彼我の兵力差はかなりのものであったにも関わらず、元忠ら守備方は奮戦し、攻撃方は苦戦を強いられることになる。
結局攻撃方は、城内にいた甲賀衆の妻子を捕らえ、内通を強制。
これにより造反が発生し、城内で火が上がったことで支えることができなくなり、元忠は敵将であった鈴木重朝との一騎打ちの末、首を刎ねられ、討死した。享年62。
元忠の首級は京橋口に晒されたという。
元忠の忠節は「三河武士の鑑」と称され、伏見城の血染め畳はその忠義を賞賛した家康によって、江戸城の伏見櫓の階上に置かれたとされている。
鳥居元忠の人物像
元忠は家康に対する忠臣として知られ、幾度も功を挙げながらも感状をもらうことは無かったとされている。
感状は別の主君に仕える際に役立つものであったため、二君にまみえるつもりのなかった元忠は、自身には無用なものであるとし、受け取らなかったという。
また豊臣秀吉から官位推挙の話が度々あったとされるが、家康と秀吉の二君に忠誠を尽くす術を知らず、自身は粗忽者であれば、秀吉に仕える器量は持っていないとし、これを断ったとされている。
伏見城の戦いの際には、家康の元に退くなり逃げるなるすることも可能であったが、討死するまで戦うことが武士の志であり忠節であると述べ、玉砕に至ったとされている。












一方で思いやりもあったとされ、高天神城攻めの際に徳川軍は兵糧の到着が遅れて苦しんだ時があったが、家臣は周囲から略奪した飯を元忠に食べさせようとしたものの、兵が飢えているのに苦労を共にしなければ、どうやって功を挙げることが叶うだろうかと言って飯を投げ捨てたとも言われており、これを知った兵は感激して節義に励んだともいわれている。
元忠はその逸話から猛将として知られているが、実際には情報収集も怠らず、ゆからぬ者(抜け目の無い者)と家康がら評価されていたという。
鳥居元忠画像
