武田信廉 ~武田信玄の影武者、逍遙軒信綱

武田信廉 ~武田信玄の影武者、逍遙軒信綱

 武田信廉とは戦国時代の武将であり、甲斐国の戦国大名・武田信虎の子。
 武田信玄や武田信繁の弟でもあり、武田二十四将の一人でもある。
 のちに出家して逍遙軒と号した。
 織田信長による甲州征伐で捕らえられて処刑され、主家滅亡と共にすることになる。

武田信廉 (たけだ のぶかど)
武田菱
生年1532年(天文元年)?
没年1582年(天正10年4月16日)
別名孫六 信廉 信連 逍遙軒信綱(しょうようけんのぶつな)
主君武田信玄⇒武田勝頼
家紋武田菱(たけだびし)
父:武田信虎
母:大井の方
兄弟竹松 信玄 犬千代 信繁 信基 信廉 信顕 一条信龍 宗智 松尾信是 河窪信実 信友 勝虎 定恵院 南松院殿(穴山信友正室) 禰々 花光院(浦野氏室) 亀御料人(大井信為正室) 下条信氏正室 禰津神平(元直の長男)室 葛山氏室 菊御料人(菊亭晴季室)
信澄 大竜寺麟岳 開善寺珠山 蟠翁文龍 女(仁科盛信室) 女(河窪信俊室)女(小笠原信嶺室)救山宗温 女(大久保忠教室)

武田信廉とは

由羅
由羅
影武者といえば、徳川家康だよね♪
……世良田二郎三郎元信?
イリス
イリス
由羅
由羅
影武者徳川家康!
徳川家康の影武者説は、フィクションとしては面白いけれどね。今回は武田信玄の影武者を務めた弟の話だよ
イリス
イリス
由羅
由羅
信玄にも影武者いたんだ?
影武者というのは、写真やTVといったものが無かった時代においては、かなり有効な手段の一つだったから。歴史上、色々と例はあるよ
イリス
イリス
由羅
由羅
じゃあ武田信廉もそうだったんだね
信廉は信廉としても活躍していたから、臨機応変に信玄の影武者を演じていた、ということだろうね
イリス
イリス

武田信玄家臣時代

外交・内政面

 武田信廉は1532年(天文元年)に武田信虎の子として誕生。

 1541年(天文10年)、兄・信玄は父である信虎を駿河の今川義元の元へと追放し、家督を相続して武田氏当主となった。
 これ以後、信玄は信濃への侵攻を活発化させ、翌年には諏訪氏を滅ぼすことになる。

 信廉の名が見られるのはこの頃からで、1548年(天文17年)に信廉は諏訪衆の千野氏に対し、武田に謀反した諏訪西川衆の追放と所領没収を伝え、知行の増加を約束しているなどしているのが見受けられる。
 このことから信廉は、諏訪衆への取次役を担っていたと考えられている。

 また1551年(天文20年)には信玄の命により、今川義元の娘を、信玄の嫡男・武田義信の正室に迎えることを伝えている。

弟といっても、信玄とは十歳以上も歳の差があったから、史料に名前がみられるようになってくるのも後になってから、ということだね
イリス
イリス

軍事面

 信廉は『甲陽軍鑑』によると、80騎を指揮したという。

 武田家臣団の編成を記したとする『軍鑑』によれば、武田一族を記した一門衆のうち、武田信豊の次に記載されており、1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いにおいて、兄・武田信繁が討死すると、親族衆の筆頭となった。

 戦時には後方守備や本陣守備を務めたとされている。

 1570年(元亀元年)には、高遠城の城主に任命。

由羅
由羅
信廉には川中島で戦死した信繁以外にも兄がいたはずだけど、そのひとたちはどうなったの?
信繁の兄である武田犬千代は七歳で夭折しているから。信繁の弟で信廉の兄である武田信基も早世しているよ。ちなみにこの武田信基と信廉の弟である武田信友は同一人物の可能性もあるらしいけれど、よくわかっていないみたい
イリス
イリス
由羅
由羅
……こうやってみると、信玄の兄弟って多いよねえ……

武田勝頼家臣時代

一門の重鎮として

 1573年(元亀4年)、兄・武田信玄が死去。

 代がその後継者であった武田勝頼に移ってからは、飯田城代や大島城代といった要職を任される、一族の重鎮となる。

 信玄の死後、かつて甲斐国を追放された信廉の父・信虎が帰国を希望。
 これを受けて、信廉は信虎の身柄を受け取り、自らの居城であった高遠城に住まわせたとされている。

由羅
由羅
信玄って父親よりも早死にしていたんだ
信虎が長生きしたから。81歳だもの
イリス
イリス
由羅
由羅
当時としては長生きだものね
そんな父親を信廉は引き取ったわけだけど、信玄と信虎の仲は悪かった半面、それ以外の子らとの仲は悪くなかったのでは、とも考えられているそうだよ
イリス
イリス

長篠の戦い

長篠の戦い
『長篠合戦図屏風』

 1575年(天正3年)、織田・徳川連合軍を相手に長篠の戦いが勃発。

 信廉は小幡信貞や武田信豊と共に中央隊に布陣。
 合戦が始まると、山県昌景に続く二番隊として攻撃を仕掛けたとされている。

 しかし長篠の戦いは武田方の大敗で終結した。

甲州征伐

天目山勝頼討死図
『天目山勝頼討死図』

 1582年(天正10年)、織田・徳川による甲州征伐が開始。

 織田信長の嫡男・織田信忠を先鋒とした織田勢が侵攻すると、信廉は抵抗らしい抵抗もせずに、大島城を放棄。甲斐へと退却した。

 その後、主君・武田勝頼は天目山の戦いに敗れ、自刃。
 信廉は織田方の残党狩りにより捕らえられ、勝頼が自害した13日後に、各務元正、豊前采女らによって殺害された。享年51。

由羅
由羅
当時の武田方の士気はがた落ちだったとはいえ、ほとんど抵抗もせずに、というのは信玄の弟としては寂しいね
この時、武田一門で意地を見せたのは仁科盛信くらいだけだから
イリス
イリス

武田信廉の人物像

 武田信廉は画家としても知られており、「武田信虎像」や「武田信虎夫人像」といった、現代において重要文化財とされる絵画を残している。

 また信廉は、兄・信玄と骨相が似ているとされ、その影武者を務めたという。

 信玄が西上作戦の最中に病死すると、その死を隠すために信廉は信玄に成りすまし、軍の引き揚げを成功させた。
 またその死を疑った北条氏政が、信玄の死を確かめるために板部岡江雪斎を派遣した際も、信廉は影武者としてこれを迎え、欺いたともいわれている。

由羅
由羅
信廉が信玄の影武者を務めたという由来は、これらの逸話からきているんだね

武田信廉画像

武田信廉