武田信廉とは戦国時代の武将であり、甲斐国の戦国大名・武田信虎の子。
武田信玄や武田信繁の弟でもあり、武田二十四将の一人でもある。
のちに出家して逍遙軒と号した。
織田信長による甲州征伐で捕らえられて処刑され、主家滅亡と共にすることになる。
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生年 | 1532年(天文元年)? |
没年 | 1582年(天正10年4月16日) |
別名 | 孫六 信廉 信連 逍遙軒信綱(しょうようけんのぶつな) |
主君 | 武田信玄⇒武田勝頼 |
家紋 | 武田菱(たけだびし) |
親 | 父:武田信虎 母:大井の方 |
兄弟 | 竹松 信玄 犬千代 信繁 信基 信廉 信顕 一条信龍 宗智 松尾信是 河窪信実 信友 勝虎 定恵院 南松院殿(穴山信友正室) 禰々 花光院(浦野氏室) 亀御料人(大井信為正室) 下条信氏正室 禰津神平(元直の長男)室 葛山氏室 菊御料人(菊亭晴季室) |
子 | 信澄 大竜寺麟岳 開善寺珠山 蟠翁文龍 女(仁科盛信室) 女(河窪信俊室)女(小笠原信嶺室)救山宗温 女(大久保忠教室) |
武田信廉とは
















武田信玄家臣時代
外交・内政面
武田信廉は1532年(天文元年)に武田信虎の子として誕生。
1541年(天文10年)、兄・信玄は父である信虎を駿河の今川義元の元へと追放し、家督を相続して武田氏当主となった。
これ以後、信玄は信濃への侵攻を活発化させ、翌年には諏訪氏を滅ぼすことになる。
信廉の名が見られるのはこの頃からで、1548年(天文17年)に信廉は諏訪衆の千野氏に対し、武田に謀反した諏訪西川衆の追放と所領没収を伝え、知行の増加を約束しているなどしているのが見受けられる。
このことから信廉は、諏訪衆への取次役を担っていたと考えられている。
また1551年(天文20年)には信玄の命により、今川義元の娘を、信玄の嫡男・武田義信の正室に迎えることを伝えている。


軍事面
信廉は『甲陽軍鑑』によると、80騎を指揮したという。
武田家臣団の編成を記したとする『軍鑑』によれば、武田一族を記した一門衆のうち、武田信豊の次に記載されており、1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いにおいて、兄・武田信繁が討死すると、親族衆の筆頭となった。
戦時には後方守備や本陣守備を務めたとされている。
1570年(元亀元年)には、高遠城の城主に任命。






武田勝頼家臣時代
一門の重鎮として
1573年(元亀4年)、兄・武田信玄が死去。
代がその後継者であった武田勝頼に移ってからは、飯田城代や大島城代といった要職を任される、一族の重鎮となる。
信玄の死後、かつて甲斐国を追放された信廉の父・信虎が帰国を希望。
これを受けて、信廉は信虎の身柄を受け取り、自らの居城であった高遠城に住まわせたとされている。








長篠の戦い

『長篠合戦図屏風』
1575年(天正3年)、織田・徳川連合軍を相手に長篠の戦いが勃発。
信廉は小幡信貞や武田信豊と共に中央隊に布陣。
合戦が始まると、山県昌景に続く二番隊として攻撃を仕掛けたとされている。
しかし長篠の戦いは武田方の大敗で終結した。
甲州征伐

『天目山勝頼討死図』
1582年(天正10年)、織田・徳川による甲州征伐が開始。
織田信長の嫡男・織田信忠を先鋒とした織田勢が侵攻すると、信廉は抵抗らしい抵抗もせずに、大島城を放棄。甲斐へと退却した。
その後、主君・武田勝頼は天目山の戦いに敗れ、自刃。
信廉は織田方の残党狩りにより捕らえられ、勝頼が自害した13日後に、各務元正、豊前采女らによって殺害された。享年51。




武田信廉の人物像
武田信廉は画家としても知られており、「武田信虎像」や「武田信虎夫人像」といった、現代において重要文化財とされる絵画を残している。
また信廉は、兄・信玄と骨相が似ているとされ、その影武者を務めたという。
信玄が西上作戦の最中に病死すると、その死を隠すために信廉は信玄に成りすまし、軍の引き揚げを成功させた。
またその死を疑った北条氏政が、信玄の死を確かめるために板部岡江雪斎を派遣した際も、信廉は影武者としてこれを迎え、欺いたともいわれている。


武田信廉画像
