朝倉氏景とは南北朝時代の武将。
越前朝倉氏の歴代当主の中には氏景の名を持つ者が二人おり、こちらではその中で第2代当主・朝倉高景の子にあたる第3代当主について記す。
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生年 | 1339年(暦応2年/延元4年) |
没年 | 1405年(応永11年12月28日) |
改名 | 孫次郎⇒氏景 |
別名 | 孫右衛門 |
家紋 | 三盛木瓜(みつもりもっこう) |
親 | 父:朝倉高景 |
兄弟 | 氏景 阿波賀茂景 向久景 三段崎弼景 |
子 | 貞景 東郷正景 中島景康 |
朝倉氏景とは








偏諱を賜る
1339年(暦応2年/延元4年)に朝倉高景の子として誕生。
1355年(文和4年)の東寺南大門での合戦においては父と共に功績を挙げ、足利尊氏より偏諱を賜って氏景と名乗ったとされている。




この偏諱を賜ったことに関しては事実かどうか怪しいとされており、その理由はこの時朝倉氏は南朝側に属しており、尊氏と敵対していたからである。


1366年(正平21年/貞治5年)に貞治の変が起こると、朝倉家の主家であった斯波氏の斯波高経らが討伐の対象となる。




この時に父・高景は斯波氏から離れ幕府側につき、所領を安堵。越前国における朝倉氏の基礎を得ることとなった。
その後、一度没落した斯波氏は再び越前守護に復帰することになり、朝倉氏もまた斯波氏の家臣に復帰することになる。
朝倉氏の冷遇
『朝倉始末記』によると、摂津の合戦などで氏景は戦功を挙げ、足利義満から「大功」の法名を賜ったが、その後、幕府や斯波氏から冷遇されることになったという。


1401年(応永8年)に、弘祥寺に仏殿を建立。一乗谷に熊野権現を勧請したとされている。




1404年(応永11年)に死去。享年66。
その家督は子の貞景(大心宗忠)が継承することになる。
朝倉家歴代当主
第1代 朝倉広景 1255年~1352年
第2代 朝倉高景 1314年~1372年
第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
第6代 朝倉家景 1402年~1451年
第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
第11代 朝倉義景 1533年~1573年