新庄直頼 ~常陸麻生藩初代藩主

新庄直頼 ~常陸麻生藩初代藩主

 新庄直頼とは戦国時代から江戸時代にかけての武将であり、大名。
 近江国の浅井氏に仕え、最終的には徳川家臣となり、常陸麻生の藩初代藩主となったことで知られている。

新庄直頼(しんじょう なおより)
生年1538年(天文7年)
没年1613年(慶長17年12月19日)
改名直頼⇒晟珊
別名通称:新三郎 新庄駿河入道晟珊(略:新駿入) 宮内卿
法名:晟珊
主君浅井長政織田信長⇒豊臣秀吉⇒改易⇒徳川家康
父:新庄直昌
母:久我氏の娘
兄弟直頼 直忠 直壽 ほか女子2名
正室:佐久間盛重娘
室:前田利太娘
直定 直綱 秀信 直房 娘(柴田某室)
養子:虎姫(中川秀成室、佐久間盛政の娘)

新庄直頼とは

由羅
由羅
新庄直頼って、浅井家臣の中ではそこまで目立った存在じゃないよね?
姉川に戦いに参陣したりして、活躍はしてるよ。ただ浅井家臣時代よりも、その後の戦国時代を生き延びたことの方が評価できる人物だと思うよ
イリス
イリス
由羅
由羅
確かにこの時代にお家を残せたっていうのは評価できるものね!
ちなみに直頼は摂津山崎城主から近江大津城主、大和宇陀城主や、高槻城主を務め、さらには豊臣秀吉の御伽衆の一人にまでなったの。関ヶ原の役で失領したけれど、文武に優れてその人格も評価されていたことから、徳川家康に召し抱えられ、常陸麻生藩の初代藩主にまでなったのだから
イリス
イリス
由羅
由羅
一度失脚しながらも再興して、お殿様にまでなったんだ

浅井氏家臣時代

 直頼は1538年(天文7年)に、近江国坂田郡朝妻城主新庄直昌の長男として誕生した。
 母は久我大納言の娘といわれいるものの、久我家の系図の方には名前がないようで、詳細は不明である。

 父である新庄直昌は近江国の新庄城主などを務めていたが、1549年(天文18年)畿内において細川晴元と三好長慶の対立により勃発した江口の戦いに、細川晴元の救援として出陣し、討死している。

 新庄直頼は父の死により11歳で家督を継承。
 その後、近江国の戦国大名である浅井長政に仕えた。

当時の近江国は北は浅井氏、南は六角氏が治めていて、新庄氏はその間で揺らいでいたみたい。でも結局は北近江の浅井氏に仕えることになったの
イリス
イリス
 しかし浅井氏は織田氏と対立し、1570年(元亀元年)に姉川の戦いが勃発。
 直頼はこの戦いに参戦し、浅井方の第4陣を構成したという。

 しかし浅井氏は姉川の戦いに敗北。
 その後、磯野員昌が守る佐和山城が降伏するなど状況は悪化し、ついには織田方であった丹羽長秀に攻められて直頼も降伏した。
 そして1573年(天正元年)小谷城の戦いを最後に浅井氏は滅亡する。

織田氏~豊臣氏家臣時代

 浅井氏が滅亡すると、直頼は織田信長に仕えることになり、江北を任された羽柴秀吉の与力とされた。

もっとも秀吉はじわじわと圧迫を強めていったようで、新庄氏は次第に秀吉の家臣化されていったともいわれているの
イリス
イリス
由羅
由羅
秀吉も抜け目ないね。でもそんなことしてたから、同じ旧浅井家臣だった阿閉貞征なんかに嫌われるんだよね
直頼は貞征と違ってその状況を甘んじて受け入れたのかもしれないけれど、その運命は大きく異なることになるから
イリス
イリス
 その織田信長は、1582年(天正10年)に明智光秀の起こした謀反である本能寺の変において横死。
 その後は豊臣秀吉に仕えたという。
由羅
由羅
阿閉貞征はここで光秀をとって滅んでしまうけれど、直頼は生き残った、というわけだね
 1583年(天正11年)に起こった賤ヶ岳の戦いでは近江坂本城を守備。

 1591年(天正19年)には近江大津城1万2000石、1594年(文禄3年)には大和宇多城主となり、翌年の1595年(文禄4年)には摂津高槻城3万石と、加増されていく。

 朝鮮出兵においては出陣し、肥前国の名護屋城に駐屯したか、もしくは朝鮮へと渡ったともいわれている。

徳川氏家臣時代

 1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、直頼は東軍として参戦するつもりだったものの、周囲が西軍に属していたため、やむなく西軍として参戦。
 伊賀上野城を占拠するなど活躍した。

由羅
由羅
本当は東軍に参加したかったのに、っていうのはよくあるパターンだよね
島津義弘とかだね
イリス
イリス
 しかし関ヶ原の戦いは西軍の敗退に終わり、直頼は戦後改易され、蒲生秀行にその身柄を預けられることとなった。
由羅
由羅
ここで一度失脚してしまうんだ
うん。でも赦免されて返り咲くことができたのは、直頼のこれまでの事績や人柄によるものだったんだろうね
イリス
イリス
 1604年(慶長9年)には赦されて、常陸麻生3万石を与えられ、立藩。

 1608年(慶長13年12月26日)、法印に叙され、宮内卿を称したとされる。

 その後1613年(慶長17年12月19日)に死去。享年75。

 常陸麻生は新庄氏の支配体制のまま、明治維新まで続くことになる。