新発田重家(五十公野治長)~上杉家を窮地に陥れた名将

新発田重家(五十公野治長)~上杉家を窮地に陥れた名将

 新発田重家とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
 越後の戦国大名であった、上杉氏家臣。蒲原郡新発田城主。
 五十公野治長の名前でも知られている。
 御館の乱後、主家である上杉家に対して反逆し、主君であった上杉景勝を窮地に陥れたものの、本能寺の変にて織田信長が死去したことで情勢が変わり、乱は鎮圧されて重家も自害して果てた。

新発田重家(しばた しげいえ)/五十公野治長(いじみの はるなが)
三つ星
生年1547年(天文16年)
没年1587年(天正15年10月25日)
改名五十公野治長⇒新発田重家
別名仮名:源太
受領名:因幡守
主君上杉謙信⇒上杉景勝
氏族五十公野氏⇒新発田氏
家紋三つ星
父:新発田綱貞
養父:五十公野弘家
兄弟長敦 重家 盛喜
女(五十公野信宗室)
女(色部長実室)
治時

新発田重家とは

由羅
由羅
新発田重家といえば、新発田重家の乱で有名だよね!
そうだね。もし本能寺の変が無かったら、重家と織田家に挟撃されていた上杉家は滅亡していた可能性は大だったと思うよ
イリス
イリス
由羅
由羅
でもどうして上杉家に反逆したの?
一言でいえば、論功行賞のもつれ、だね。御館の乱で上杉景勝に味方して功を上げたのに、恩賞がもらえなかったから不満が溜まり、そこを周辺諸国の大名に突かれて挙兵に至った、という感じかな
イリス
イリス
由羅
由羅
しっかり働いてくれたのに褒美も無しじゃ、そりゃ怒るよね
そういうこと。加えて重家は軍略に優れた名将だったものだから、これの鎮圧に景勝は手を焼くことになってしまうんだよ
イリス
イリス

来歴

御館の乱

 新発田氏は北越後の国人で、揚北衆の一員。
 重家は新発田綱貞の次男として1547年(天文16年)に誕生した。

 兄である新発田長敦が新発田氏の家督を継いだことから、重家は当初、当初は五十公野家を継いで五十公野治長を名乗っていた。

由羅
由羅
ちょっと待って
なに?
イリス
イリス
由羅
由羅
いきなり読めない名字だよう
戦国武将の中で時折出てくる難読武将の一人だね
イリス
イリス
由羅
由羅
それで、なんて読むの?
いじみの はるなが、だよ。ちなみに五十公野氏は新発田氏と同じ一族で、五十公野弘家に後継ぎがいなかったことから養子に入ったんだね
イリス
イリス

 重家は上杉謙信に仕え、川中島の戦いなどで功を上げたとされている。

ちなみに激戦で知られる第4次川中島決戦で室住虎光(諸角虎定)を討ち取った、ともいわれているよ
イリス
イリス

 関東出兵にも従軍し、対武田や対北条などの戦線で活躍した。

 謙信の死後、1578年(天正6年)にその家督を巡って越後のお家騒動である御館の乱が勃発。
 重家は上杉景勝方の安田顕元の調略に応じて景勝を支持。
 これにより上杉景虎方についた同族の加地秀綱を降し、三条城の神余親綱を討って、乱に介入した蘆名盛氏や伊達輝宗といった兵を退けるなどし、大いに活躍したという。

由羅
由羅
武将としてとても優秀だったんだね~

 1580年(天正8)年、兄・長敦が死去したことで新発田氏の家督を継承することとなり、以後は新発田重家と名乗ることになる。

新発田重家の乱

 多くの武功を上げ、景勝の家督継承を成功させた重家は、それに見合った恩賞を期待した。

 ところが重家が望んでいた恩賞のほとんどは、景勝の子飼いであった上田衆に与えられ、重家には新発田氏の家督相続の保障のみ、という納得できない内容であったという。

由羅
由羅
う~ん、これが問題だったんだよね?
そう。兄であった長敦も御館の乱では景勝方として功績を上げていたというのに、とにかく新発田氏に対する功績は軽んじられたことで、否応なく重家に不満が蓄積されていくことになったんだね
イリス
イリス

 重家と景勝の関係悪化に際し、かつて重家を引き入れた安田顕元は両者の和解に奔走。
 しかし効果無く、顕元は重家に謝罪するために自刃して果てた。

安田顕元は御館の乱の陰の功労者。彼の調略により景勝方についた武将は多く、そんな顕元の死は重家にある覚悟を決めさせることになったんだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
上杉家に対する反逆、だね

 1581年(天正9年)、蘆名盛隆と伊達輝宗は重家が景勝に対して不満を抱いていることを知って、反乱を起こさせるべく調略を行い、ついに6月16日、重家は上杉家に対して反乱におよんだ。

重家は一門衆や加地秀綱ら加地衆、そして上杉景虎を支持していた豪族を味方に引き入れた上で新潟津を奪取し、同地に新潟城を築城して独立したんだよ
イリス
イリス

 これに対して景勝は本庄繁長や色部長真に命じて重家の抑えとしたものの、この年は即座に軍事的な行動を起こすことはなかった。

由羅
由羅
どうしてすぐに鎮圧しなかったの?
正直、それどころじゃなかったから。この頃、西の北陸方面では織田家の柴田勝家が上杉家攻略を進めていたの。勝家にとっては重家の反乱はまさに好機。ここぞとばかりに攻勢に出たんだよ
イリス
イリス

 1582年(天正10年2月)、景勝は重家に対して攻撃を開始するも、重家はこれを撃退する。

そこで景勝は重家の背後となる蘆名盛隆に挟撃を依頼するんだけど……
イリス
イリス
由羅
由羅
あれ? 確か蘆名盛隆って
そう。新発田重家の乱の仕掛け人。だから景勝の要請なんか応じるはずもない
イリス
イリス
由羅
由羅
だよね~。盛隆からすると、景勝の行動はきっと滑稽に映ったんだろうね

 4月になり、雪解けを待っていた景勝は再度重家攻めを行おうとしたものの、西からは柴田勝家。南からは森長可、滝川一益らが侵攻してきており、これに対処するため直接的な攻勢には出れなかった。

由羅
由羅
この頃って、頼みの綱の武田家の武田勝頼も甲州征伐で滅亡しちゃっていて、上杉家は周囲はもちろん、内部も敵だらけで絶体絶命だったんだね

 しかし6月2日、明智光秀による本能寺の変が勃発。

 これにより信長は横死し、織田軍は撤退した。

由羅
由羅
光秀様々だね
そうだね。これで西側と南側の脅威はとりあえず去ったんだけど、今度は武田家の遺領を巡る天正壬午の乱が勃発して、信濃にて北条家と相対することになってしまうんだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
休む暇もないね

放生橋の戦い

 その後、7月には北条氏と和睦。
 これにより重家に対する攻勢を強めることができたが、兵糧不足により撤兵することになる。

 翌1583年(天正11年)になり、景勝は4月と8月に出陣して重家攻めを敢行するも、頑強な抵抗にあって失敗する。

特に8月の放生橋の戦いでは、豪雨と湿地帯のために上杉方は大混乱。この好機を新発田勢に突かれて、あとちょっとで景勝も討ち取られそうになるくないの敗北を喫してしまうんだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
地の利もあったんだろうけど、景勝を相手に重家は優位に事を進めたんだね

 このような情勢の中、景勝は直江兼続に命じて蘆名家に対して調略を行い、富田氏実や新国貞通といった盛隆に反抗的な重臣たちを抱き込んで、揺さぶりをかけるなどし、後方攪乱を狙った。

八幡表の戦い

 1584年(天正12年8月)、水原城奪還を企図して景勝は出陣。

 上杉方は重家率いる新発田本隊を水原城下に引き付ける一方で、迂回した景勝隊が八幡砦を奪取して水原城の孤立に成功。
 これにより新発田勢は水原城を放棄して退却に至った。

由羅
由羅
ようやく上杉方に戦果らしい戦果が出たね
ちょこっとの間だけだけど、ね
イリス
イリス

 水原城の奪取自体は成功したものの、その一方で重家の攻撃により直江兼続の陣が崩壊して大きな損害を被ったことで、進軍不可能となっていたのである。

 結局水原城も新発田方に奪還され、士気の上がった重家は佐々成政と組んで、挟撃を目論んだという。

由羅
由羅
重家ってば強いよね……。相手は景勝と兼続の名コンビなのに
ここまでは重家頑張ったんだけどね。少しずつ情勢が変わっていって、やがて重家にとって不利な状況になっていくんだよ
イリス
イリス

暗転

 10月6日、重家を支援していた蘆名盛隆が家臣によって殺害されてしまう。

 1585年(天正13年5月)、伊達輝宗は家督を嫡男・政宗に譲り、政宗は蘆名に対して開戦する。

これまで重家を支援してきた蘆名氏はもちろんのこと、伊達氏では伊達政宗が従来の方針を転換し、更に悪い事に10月8日に照宗が死去し、これにより重家は完全に後ろ盾を失ってしまったの
イリス
イリス

 また上杉家臣である藤田信吉によって新潟城と沼垂城が調略され、失陥する。

とにかく新潟港を失ったことは、重家にとって痛手だったの。というのも、これを利用して物資の大量輸送を可能にしていたからだよ
イリス
イリス

 さらに景勝は1586年(天正14年)、上洛して羽柴秀吉に臣従した。

 この後ろ盾を背景に景勝は攻勢を強めるも、重家は頑強に抵抗し、即座の決着には至らなかった。

由羅
由羅
重家、頑張るよねえ……
でも、さすがに苦戦を免れなくはなっていたんだよ。物資は欠乏し、配下は討死し、また寝返りなんかも起きて戦力はどんどん衰えていったから
イリス
イリス

 1587年(天正15年)、景勝は秀吉の支援により1万余の大軍で新発田城を包囲。
 同時に重家と親交のあった青蓮院門跡・尊朝法親王が和睦を勧告するも、これを拒否。

 こうしている間でも周囲の諸城は次々に攻略されて、9月19日には赤谷城が攻略された事により補給路は完全に断たれ、義弟の五十公野信宗らが籠る五十公野城共々、新発田城は孤立した。

9月24日には秀吉より、重家が城を出て降伏すれば赦すようにと景勝に対して使者があり、景勝はその意を重家に伝えたけれど、重家はやっぱり拒否するの。これにより秀吉は来春までに決着をつけるようにと厳命したことで、景勝は総攻撃を開始することになったんだよ
イリス
イリス

最期

 10月13日、藤田信吉らにより五十公野城が陥落。
 10月25日、重家は新発田城で最後の宴を催すと、敵の包囲に対して打って出た。

 重家は色部長真の陣へと突撃し、その際に「親戚のよしみをもって、我が首を与える。誰かある。首をとれ」と言った上で甲冑を脱ぎ捨てて腹を真一文字に掻っ切って自刃して果てたという。

ちなみに色部長真は重家の義理の弟にあたるよ
イリス
イリス

 重家の言に応えたのは色部の家臣・嶺岸佐左衛門で、重家の首をとって手柄とし、景勝に感状をもらうことになる。

 重家死後も最後まで抵抗を続けていた池ノ端城もついに陥落し、これをもって新発田重家の乱は終息した。

重家死後、新発田の地には溝口秀勝が封じられ、その際に重家の墓所と堂を建立し、丁重に供養したといわれているよ
イリス
イリス

新発田重家画像

新発田重家