酒井忠次とは戦国時代の武将。徳川氏の家臣。
徳川四天王や徳川十六神将などの筆頭として挙げられる人物で、徳川家康にとって第一の功臣であるとされている。
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生年 | 1527年(大永7年) |
没年 | 1596年(慶長元年10月28日) |
別名 | 小平次(幼名) 小五郎 左衛門尉(通称) 一智(号) |
主君 | 松平広忠⇒徳川家康 |
氏族 | 酒井氏 |
家紋 | 片喰 |
親 | 父:酒井忠親 |
兄弟 | 酒井忠善 西郷清員室 |
妻 | 正室:松平清康の娘(碓井姫) |
子 | 家次 本多康俊 小笠原信之 松平久恒 忠知 ふう(松平伊昌室) 牧野康成室 本郷頼泰室 曽我尚佑室) 養女(山岡景佐の娘) |
酒井忠次とは
















略歴
家康に仕える
酒井忠次は1527年(大永7年)、松平氏の譜代家臣であった酒井忠親の次男として誕生した。
そして元服後、まず松平広忠(徳川家康の父)に仕えることになる。
当時の松平氏は今川氏に従属しており、広忠の子であった竹千代(のちの徳川家康)は今川義元の人質として駿府に赴いた際はこれに同行。
この時の忠次は23歳であり、同行した者の中では最も最高齢であったという。
これにより家康に仕えるようになった忠次であったが、弘治年間には福谷城に住み、1556年(弘治2年)に尾張織田氏家臣・柴田勝家が2,000騎で攻め寄せてきた際にはこれを迎撃し、攻防の末に勝家を敗走させるなどの戦果を上げている。




徳川家の家老として
1560年(永禄3年)に桶狭間の戦いが勃発後、主君・徳川家康は今川氏より独立。
忠次はこの頃より徳川家の家老となったという。

『大樹寺御難戦之図』
1563年(永禄6年)には三河一向一揆が発生。
家康の家臣はもちろん、酒井氏一族の多くが一向一揆側に与したなかにあって、忠次は一揆側につかず、家康に従ったとされている。




1564年(永禄7年)の吉田城攻めにおいては先鋒を務めた上で、守将の小原鎮実を撤退に追い込み、吉田城を無血開城させる功を挙げ、その後吉田城主となった。


これによって忠次は、東三河の旗頭として役割を与えられ、西三河を統率した石川家成と共に徳川氏の中で中心的な役割を担うようになっていく。
駿河侵攻から長篠の戦いまで
1569年(永禄12年)、甲斐の武田信玄は駿河の今川氏真に対して侵攻を開始。
初め徳川氏は武田氏と結び、今川領国の分割を約定しており、その交渉に忠次が当たっていたとさてれいる。
1570年(元亀元年)には、朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍の戦った姉川の戦いが勃発。
忠次は小笠原信興と共に朝倉軍に突入し、戦闘の火蓋を切ったとされている。
1573年(元亀3年)には、武田信玄による西上作戦の最中に、三方ヶ原の戦いが勃発する。
この時忠次は右翼を担当しており、敵将・小山田信茂と戦いこれを破る戦果を挙げたとされている。



『長篠合戦図屏風』
信玄死後、1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を行い、これを陥落させて長篠城を救い、勝頼の叔父に当たる河窪信実を討ち取り、さらには、有海村に展開していた武田の支軍を打ち破ることにも成功している。


松平信康切腹事件
各地で功を挙げて家康の信任厚かった忠次であったが、1579年(天正7年)に家康嫡子・松平信康について織田信長より詰問を受けた際、大久保忠世と共に弁解するための使者として、安土城へと赴くことになる。
しかしこの時忠次は信康についてうまく弁護することができず、結果的に信康は切腹することになった。




本能寺の変後
1582年(天正10年)、織田氏重臣・明智光秀の謀反にあった信長は、京の本能寺にて横死。
家康は当時堺におり、命辛々脱出して岡崎に戻った際(神君伊賀越え)には明智光秀を討つため、忠次は先陣を務めたとされる。
信長の死により、甲斐武田氏旧領を巡って天正壬午の乱が発生すると、忠次は信濃へと派遣されて、信濃国衆の懐柔を図った。
その際忠次は、奥三河から信濃へ侵攻するものの、諏訪頼忠や小笠原貞慶の裏切りにあって失敗したとされている。
1584年(天正12年)には小牧・長久手の戦いが勃発し、羽黒の戦いにおいて森長可を敗走させ、功を挙げた。
石川数正出奔後
小牧・長久手の戦いが終結したあとの1585年(天正13年)、家康の家臣として重きを成していた重臣の石川数正が、突如出奔。
以降は忠次が家康第一の家臣となって、1586年(天正13年)には徳川家中では最高位となる従四位下・左衛門督に叙位任官された。
1588年(天正16年)、家督を長男・家次に譲り、自らは隠居。
すでに老齢に達していたことや、眼病により目が見えなかったことが要因とされている。
隠居後は京都に住み、豊臣秀吉からは京の桜井の屋敷や在京料として、1000石を与えられたという。
そして1596年(慶長元年10月28日)、死去。享年70。
酒井忠次の人物像

『酒井忠次時鼓打之図』
・三方ヶ原の戦いで徳川方が大敗を喫した際、忠次は城の太鼓を打ち鳴らし、味方を鼓舞した上で武田方に伏兵ありと思わせ、撤退させたという「酒井の太鼓」という逸話が伝わっているが、これは家康がした空城の計を後年に脚色したものであると考えられている。
・1573年(元亀4年)に「松枯れで竹類なき明日かな」という句が武田氏より送られてきた際、徳川家臣団が激怒する中、忠次はこの句に濁点を加えて「松枯れで武田首なき明日かな」と読み返し、このため正月の門松の竹を斜めに切り落とす習慣ができたともいわれている。
・忠次の使用した槍は「甕通槍」といい、甕もろともこれを突き抜け敵を倒したことに由来している、という逸話が残っている。
・忠次は海老すくいという踊りが得意で、重臣という立場ながら諸将の前で踊りをみせるなどし、盛り上げたとされている。家康が北条氏と同盟を結ぶ際に伊豆三島に向かった際にも、これを披露したという。
・徳川四天王の中では小禄であり、嫡男の家次が3万石を与えられた際にこれを抗議し、家康より信康事件の不手際を責められた、という逸話も残っている。
・旧武田家臣の大半が井伊直政に配されたことに対し、榊原康政がこれを不満に思って忠次に洩らしたところ、忠次はこれを叱責し、さらに直政と康政の中を取り持って、以来二人は友になったといわれている。
・忠次が功をあげた鳶ヶ巣山砦奇襲作戦の際、忠次はこれを献策するも信長に叱責されて取り上げてもらえなかったが、軍議後に密かに信長に呼び出され、叱責したのは情報漏洩を避けるためであり、すぐに出立すべしと言って、金森長近ら鉄砲隊500も貸し与えられ、その任を任されたといわれている。
酒井忠次画像
