酒井家次 ~下総臼井藩初代藩主

酒井家次 ~下総臼井藩初代藩主

 酒井家次とは戦国時代から江戸時代にかけての武将。徳川氏の家臣。
 徳川四天王と称された、酒井忠次の嫡男。

酒井家次(さかい いえつぐ)
片喰
生年1564年(永禄7年)
没年1618年(元和4年3月15日)
別名小五郎(仮名) 左衛門尉
主君徳川家康⇒徳川秀忠
氏族酒井氏
家紋片喰
父:酒井忠次
母:碓井姫(松平清康の娘)
兄弟家次 本多康俊 小笠原信之 松平久恒 忠知 ふう(松平伊昌室) 牧野康成室 本郷頼泰室 曽我尚佑室)
正室:榊原政吉の娘
忠勝 直次 忠重 勝吉 了次 忠時 政時
娘(松平忠良正室) 娘(水谷勝隆正室) 娘(内藤忠興正室) 娘(里見義高室) 娘(島田重利室) 娘(高力一成室) 娘(菅沼忠隆正室)

酒井家次とは

由羅
由羅
酒井家次といえば、徳川四天王の一人、酒井忠次の嫡男だよね
そうだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
でもあんまり輝かしい事跡は聞かないよね
父親である忠次が存命中は、どうしてもその影に隠れてしまったからね
イリス
イリス
由羅
由羅
じゃあ忠次の死後は活躍できたの?
忠次の死後に起きた大きな争乱といえば、関ヶ原の戦いと大坂の陣だけど、残念ながらあまり活躍はできなかったようだよ。これは後述するね
イリス
イリス
由羅
由羅
その二つを逃すと、武士としての活躍できる場ってもうほとんど無いものねえ

略歴

 1564年(永禄7年)、酒井忠次の長男として誕生した。

 母は徳川家康の叔母に当たる碓井姫ということもあって、家次は家康の従弟に当たる血筋であったという。

由羅
由羅
地味に家康の親戚だったんだ
 幼少時より家康に仕えており、1588年(天正16年)父・忠次が隠居すると、その家督を継承。

 1590年(天正18年)に小田原征伐が行われ、後北条氏が滅亡すると家康は関東に移封され、家次は下総国臼井3万7,000石を与えられました。

この下総国臼井3万7千石の大名になった時の、忠次と家康の逸話はよく知られているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
どんなの?
徳川四天王といえば忠次以外に本多忠勝、榊原康政、井伊直政らがいたわけだけど、この時の他の三家はみんな十万石以上の大名だったの
イリス
イリス
由羅
由羅
忠次といえば四天王筆頭に挙げられる功第一の人物だよね。いくら代替わりしたとはいえ、ちょっと差があり過ぎない?
そう。忠次も息子の家次のことを不憫に思ってか、家康に加増を願い出たそうだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
うんうん。それで?
その時家康は「お前も我が子が可愛いか」とそう答えたといわれているよ。これは皮肉の類だったんだけど……
イリス
イリス
由羅
由羅
そっか。忠次といえば、家康の長男だった信康の弁明に失敗して、織田信長に切腹を命じられる原因になったことがったから、それで
そういうこと。このことは家康がケチだとか、むしろ家臣団の結束を維持するために必要な措置をとっていたからとか、やっぱり信康切腹の件で忠次を恨んでいたからだとか、色々いわれる逸話だね
イリス
イリス
由羅
由羅
実際のところはどうなの?
わからない。でもどちらかというと酒井家が冷遇されていたというよりは、本多、榊原、井伊の三家が特別な扱いをされていただけ、と考えた方が自然かもしれないよ。それに下総国臼井は江戸に近くて要地でもあったから、信頼できる家臣を配置した、とも考えられるし
イリス
イリス
由羅
由羅
なるほど……。確かに家康ってば、親藩や譜代の大名は近くに配置して、外様は遠方に配置していたものね。大雑把には、だけど
酒井家はある意味身内だったから、とも考えられるわけだね。最初は少ない石高で我慢してもらったけど、のちに加増されて栄転しているからずっと不遇だったわけでもないし
イリス
イリス
由羅
由羅
あ、石高増えたんだ♪
忠次の死後、関ヶ原の戦いの後に、だけどね。でも穿った見方をすると、恨みのある忠次が死んだから嫌がらせを止めただけ、という考え方もできるよ
イリス
イリス
由羅
由羅
うわー……。そうでなかった、と思いたいところだね

関ヶ原の戦い
『関ヶ原合戦図屏風』

 1600年(慶長5年)には関ヶ原の戦いが勃発。

 家次もまた従軍するも、徳川秀忠に従って中山道を進軍し、途中、真田昌幸らの足止めもあって関ヶ原本戦には間に合うことなく、戦いに参加することはできなかった。

由羅
由羅
秀忠組の方にいたんだ……そりゃあ活躍できないよね
 戦後の1604年(慶長9年)には、上野国高崎5万石に移封されることになる。
さほどの活躍をしたわけでもないのに、これは過分な加増だったともいえるかな。これは関ヶ原の戦いで西軍についた大名らは改易なり何なりして追っ払うことができたから、家康が自由にできる所領が増えて、それでようやく酒井家にもそれ相応の石高を与えることができた、とも考えられるよ
イリス
イリス

大坂夏の陣
『大坂夏の陣図屏風』

 1614年(慶長19年)には、徳川氏と豊臣氏の間に大坂の陣が始まり、冬の陣では大坂城の東側の黒門口を担当し、戦ったとされる。

 しかし大坂城は堅城であり、その守りの前に戦功を挙げることは叶わなかったという。

由羅
由羅
冬の陣では残念ながら功無し、かあ
 翌年の1615年(慶長20年)の大坂夏の陣における、天王寺・岡山の戦いでは天王寺口第三陣の大将として戦うも、豊臣方・毛利勝永の猛攻を前に部隊は壊乱し、家次は敗走。
由羅
由羅
夏の陣でもいいとこ無しだね
まあ、天王寺・岡山の戦いでは豊臣方の奮戦が目立った戦だし、幕府方は数で勝っていたから勝てたけれど、家次に限らずあまりうまい戦ができたとは言えなかったから
イリス
イリス
 その後、真田信繁の突入に遭い、家康本人すら死を覚悟するほど追い詰められることになったが、結果的に大坂の陣は徳川の勝利で幕を閉じ、豊臣氏は滅亡した。

 その後1616年(元和2年)に、越後高田藩10万石に移封。

 それから2年後の1618年(元和4年)に、死去。
 家督は長男・忠勝が継承した。

酒井家次画像

酒井家次