斎藤朝信とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
越後上杉氏の家臣。
文武両道の武将で越後の鍾馗の異名をとった。
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生年 | 1527年(大永7年)? |
没年 | 1592年(文禄元年)? |
別名 | 下野守 |
主君 | 上杉謙信⇒上杉景勝 |
氏族 | 越後斎藤氏 |
家紋 | 千切 |
親 | 父:斎藤定信 |
子 | 斎藤景信 |
斎藤朝信とは









歌川国芳画『鍾馗』




来歴
転戦と武功
斎藤朝信は斎藤定信の子として、1527年(大永7年)頃に誕生した。
その後、越後国の戦国大名・上杉謙信に仕え、越中攻略戦や、1561年(永禄4年)に勃発した第四次川中島の戦い、また後北条氏と戦った小田原城の戦い、1564年(永禄7年)には下野の佐野城攻めや唐沢山城の戦いなど、朝信は各地を転戦して数々の戦功を挙げたという。




謙信の信頼
主君であった上杉謙信からの信頼は絶大であったとされ、謙信が関東管領職の就任式の際に、その太刀持ちを柿崎景家と共に務めさせたという。




朝信は武勇だけでなく戦術家でもあり、謙信はそれを信頼して強敵に対しては朝信を差し向けたとされている。




御館の乱
1578年(天正6年)、主君であった上杉謙信が死去。
これにより、養子であった上杉景勝と上杉景虎との間で家督争いが勃発する。


朝信は景勝の支持に回り、当初景虎方に与していた武田勝頼との外交交渉に当たるなど活躍した。
乱は景勝方の勝利に終わり、朝信は恩賞として刈羽郡の六ヶ所及び、景虎派に加担して滅亡した三条城主・神余親綱の旧領を与えられた。






朝信の評価
朝信は本能寺の変が起こった頃に老齢で隠居し、1592年(文禄元年)頃に死去したと伝わっている。






斎藤景信
朝信の嫡男・乗松丸は景信と名乗って家督を継承。
後に勃発した新発田重家の乱において、軍功を挙げたとされている。






1598年(慶長3年)には、上杉氏は会津移封となったものの、景信は病のため従わなかったようで、そのまま越後村上に隠棲したという。


逸話


謙信は上洛の際、朝信を甲斐の武田信玄の元に使者として派遣する。
朝信は「富楼那の斎藤」として名高く、それを知っていた信玄は朝信に対し、意地も悪い質問をしたという。
「そなたは小兵であり、しかも隻眼。そんなそなたの知行は如何ほどなのか」
朝信は答えて、
「六百貫を頂戴しております」
その答えに信玄は、
「それは過分の知行であろうぞ」
笑ってそのように揶揄したという。
しかし朝信は意に介さず、
「武田家ではどうか知りませぬが、越後では譜代の者であれば例え身に障害があったとしても、禄は賜っております。拙者の隻眼などは、片目を射られてもその矢を抜かずに追い懸けて矢を射返した長尾氏の先祖・景政に似ているから武功の印だ、と主君は悦び、重用してくれています。武田家とて、左足が不自由な上に右眼も失っておられる山本勘助殿という小兵をお抱えになっていらっしゃる。それゆえ、拙者も少しも恥じるところはありませぬ」
このように答え、それを聞いた信玄は朝信の才を認め、
「晏子のような者よ」
と誉め、朝信は無難に外交の役目を果たし、引き出物をもらって越後に帰ることができた。
これにより謙信は、上洛を果たすことができたのである。

