斎藤朝信 ~越後の鍾馗、あるいは晏子の如き者よ

斎藤朝信 ~越後の鍾馗、あるいは晏子の如き者よ

 斎藤朝信とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
 越後上杉氏の家臣。
 文武両道の武将で越後の鍾馗の異名をとった。

斎藤朝信(さいとう とものぶ)
千切
生年1527年(大永7年)?
没年1592年(文禄元年)?
別名下野守
主君上杉謙信⇒上杉景勝
氏族越後斎藤氏
家紋千切
父:斎藤定信
斎藤景信

斎藤朝信とは

由羅
由羅
斎藤朝信って越後の鍾馗って呼ばれていたくらい、武勇の誉れ高い人物だったそうだけど、そもそも鍾馗って何?
鍾馗(しょうき)というのは道教に関連する神様のことだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
つまり中国の神様だったわけだね
うん。この鍾馗という神様は中国発祥だけど、日本においては疱瘡除けや学業成就に効があるといわれているの。だから端午の節句に絵や人形を奉納したりしているよ。ちなみに歌川国芳が描いた鍾馗はこんな感じ
イリス
イリス

歌川国芳画『鍾馗』
歌川国芳画『鍾馗』
由羅
由羅
わあ。おっかなそうだけど、強そうだね
そんな鍾馗に例えられた朝信がどれほどの人物だったかは、まさに推して知るべし、だね
イリス
イリス

来歴

転戦と武功

 斎藤朝信は斎藤定信の子として、1527年(大永7年)頃に誕生した。

 その後、越後国の戦国大名・上杉謙信に仕え、越中攻略戦や、1561年(永禄4年)に勃発した第四次川中島の戦い、また後北条氏と戦った小田原城の戦い、1564年(永禄7年)には下野の佐野城攻めや唐沢山城の戦いなど、朝信は各地を転戦して数々の戦功を挙げたという。

特に甲斐武田氏と争った第四次川中島に戦いにおいて、一向一揆に備えるために越中に出陣し、本隊の進行を助けたとされているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
川中島の戦い=第四次川中島の戦い、っていわれているくらいの大激戦に、朝信も参加していたんだね

謙信の信頼

 主君であった上杉謙信からの信頼は絶大であったとされ、謙信が関東管領職の就任式の際に、その太刀持ちを柿崎景家と共に務めさせたという。

柿崎景家もそうだけど、朝信も武勇だけでなく政務にも長けていて、景家と共に奉行職を務めたといわれているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
この時代の武将って、武官であると同時に政治家でもあるんだよね。どちらもこなせたってことは、本当に文武両道だったんだ
 朝信は武勇だけでなく戦術家でもあり、謙信はそれを信頼して強敵に対しては朝信を差し向けたとされている。
その強敵の一つが、北陸を制覇しつつあった織田信長だったんだけど、織田家の北陸方面軍を率いた柴田勝家が越中に侵攻した際は、これを魚津城で迎え撃ったりもしているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
確かに強敵だよね

御館の乱

 1578年(天正6年)、主君であった上杉謙信が死去。

 これにより、養子であった上杉景勝と上杉景虎との間で家督争いが勃発する。

由羅
由羅
いわゆる御館の乱だね!
 朝信は景勝の支持に回り、当初景虎方に与していた武田勝頼との外交交渉に当たるなど活躍した。

 乱は景勝方の勝利に終わり、朝信は恩賞として刈羽郡の六ヶ所及び、景虎派に加担して滅亡した三条城主・神余親綱の旧領を与えられた。

ついでに朝信の嫡男・乗松丸に対しても、景虎方に与した北条高広ら北条氏の旧領より、恩賞として知行が与えられたそうだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
景勝は手厚く報いたんだね!
そうだね。ただまあ……ちゃんと報いることができなかった家臣もいて、あとで色々と問題を起こし、挙句の果てには景勝を窮地に陥れるんだけどね
イリス
イリス

朝信の評価

 朝信は本能寺の変が起こった頃に老齢で隠居し、1592年(文禄元年)頃に死去したと伝わっている。

朝信の評価だけど、仁愛の心が深く、士卒をいたわり、百姓をいつくしんだので万人から慕われたといわれているの
イリス
イリス
由羅
由羅
領民や配下の将からすれば理想的な人物だったわけだね
うん。それに武闘派だらけの上杉家中にあって内政もこなしていたものだから、とても目立つ存在だったらしいよ
イリス
イリス

斎藤景信

 朝信の嫡男・乗松丸は景信と名乗って家督を継承。
 後に勃発した新発田重家の乱において、軍功を挙げたとされている。

由羅
由羅
新発田重家の乱って
前述した御館の乱で、景勝にちゃんと恩賞をもらえずに怒った重家が起こした反乱だよ。本能寺の変が無かったら、景勝は滅亡していたかもしれないほど、上杉家は追い詰められたんだから
イリス
イリス
由羅
由羅
謙信の死後は色々あったんだねえ
 1598年(慶長3年)には、上杉氏は会津移封となったものの、景信は病のため従わなかったようで、そのまま越後村上に隠棲したという。
でも景勝の子で出羽米沢藩第2代藩主となった上杉定勝は、景信の子である信成を越後より招き寄せ、300石で召し抱えたの。そしてその子孫は米沢藩士として幕末まで続いたそうだよ
イリス
イリス

逸話

斎藤朝信は隻眼だったらしくて、それにまつわるこんなエピソードが『甲越信戦録』に残っているよ
イリス
イリス
 謙信は上洛の際、朝信を甲斐の武田信玄の元に使者として派遣する。

 朝信は「富楼那の斎藤」として名高く、それを知っていた信玄は朝信に対し、意地も悪い質問をしたという。

「そなたは小兵であり、しかも隻眼。そんなそなたの知行は如何ほどなのか」

 朝信は答えて、

「六百貫を頂戴しております」

 その答えに信玄は、

「それは過分の知行であろうぞ」

 笑ってそのように揶揄したという。
 しかし朝信は意に介さず、

「武田家ではどうか知りませぬが、越後では譜代の者であれば例え身に障害があったとしても、禄は賜っております。拙者の隻眼などは、片目を射られてもその矢を抜かずに追い懸けて矢を射返した長尾氏の先祖・景政に似ているから武功の印だ、と主君は悦び、重用してくれています。武田家とて、左足が不自由な上に右眼も失っておられる山本勘助殿という小兵をお抱えになっていらっしゃる。それゆえ、拙者も少しも恥じるところはありませぬ」

 このように答え、それを聞いた信玄は朝信の才を認め、

「晏子のような者よ」

 と誉め、朝信は無難に外交の役目を果たし、引き出物をもらって越後に帰ることができた。
 これにより謙信は、上洛を果たすことができたのである。

晏子というのは中国春秋時代の斉の名宰相・晏嬰のこと。朝信はこのように過去の偉人に例えられるほどの人物だった、ということだね
イリス
イリス