斎藤妙椿 ~東西の運不は持是院の進退によるべし

斎藤妙椿 ~東西の運不は持是院の進退によるべし

 斎藤妙椿とは室町時代から戦国時代にかけての武将であり、僧。
 美濃斎藤氏を、主家である土岐氏以上の勢力に発展させたことで知られる。
 後に善恵寺に持是院という子院を構えたため、持是院妙椿とも呼ばれた。

斎藤妙椿(さいとう みょうちん)
撫子
生年1411年(応永18年)
没年1480年(文明12年2月21日)
別名持是院 善恵寺
主君斎藤利藤⇒土岐成頼
氏族美濃斎藤氏
家紋撫子(なでしこ)
父:斎藤宗円
兄弟利永 妙椿 利任 周倫
北畠氏娘
養子:妙純 甘露寺元長の娘(織田敏広室)

斎藤妙椿とは

由羅
由羅
斎藤妙椿って、名前からして僧、って感じだよね
武将がのちに剃髪して法名を名乗ることはよくあるから。有名どころでは武田信玄とか。でも妙椿の場合は幼い頃から僧だったんだけれどね
イリス
イリス
由羅
由羅
美濃斎藤氏では……道三流を除いてだけど、一番の有名人、ってところ?
そうかもしれないね
イリス
イリス
由羅
由羅
美濃斎藤氏といえば美濃守護代っていうイメージでしょ? でも妙椿は違うって話だけど
そう。以前は妙椿も守護代とされてきたんだけれど、実際には就任していないってわかったから
イリス
イリス
由羅
由羅
でも権力は絶大だったんだよね?
その通り、だよ。「無双の福貴、権威の者なり」「この者、一乱中種々張行」「東西の運不は持是院(妙椿)の進退によるべし」なんて評された人物だから
イリス
イリス

来歴

 斎藤妙椿は1411年(応永18年)、美濃守護代であった斎藤宗円の次男として誕生した。
 妙椿という名は法名。実名は伝わっていない。

 幼少時より出家し、善恵寺で修行を積んだとされている。
 善恵寺に子院・持是院を構え、持是院妙椿とも呼ばれた。

 1450年(宝徳2年)に妙覚寺から世尊院日範を招き、常在寺を建立するなどしている。

由羅
由羅
妙椿って、この頃で生まれて40年近く経っているってことだよね?
うん。妙椿は長い間僧としての人生を歩んでいたの。妙椿には兄・利永がいて、このひとが父・宗円の後を継いで美濃守護代になっていたから、惣領家とは距離を置いていたのかもね
イリス
イリス
 しかし1460年(長禄4年)、兄である斎藤利永が死去。
 この後を継ぎ、新しい守護代となったのが、利永の子で妙椿の甥に当たる斎藤利藤であった。

 妙椿はこの利藤を後見するために、加納城へ移った上で、ここでも持仏堂と居庵を設けて持是院と称したという。

以前からそうだったのか、兄が死去したことで芽生えたのかは分からないけれど、ここから妙椿の野望が表に出るようになっていくわけだね
イリス
イリス
 妙椿は美濃守護であった土岐成頼の家臣という立場であったものの、同時に室町幕府の足利将軍家の直臣という立場にもなろうとしたという。
実際に妙椿はのちに室町幕府奉公衆になっているし、官位も従三位権大僧都に昇っているから
イリス
イリス
由羅
由羅
それって凄いの?
主君であった土岐成頼の官位が従五位下だったからね。官位だけでみれば、その上、ということになるから……
イリス
イリス
由羅
由羅
見方によっては主従逆転しちゃってる、ってことかあ
 1467年(応仁元年)には応仁の乱が勃発。
 妙椿ら土岐勢は山名宗全の西軍に属することになり、上洛していた成頼に代わって美濃国内の防衛を担当し、東軍に属した冨島氏や長江氏や、それに加担した近江の京極氏と戦い、1468年(応仁2年)にはこれを撃退し、美濃を平定した。
由羅
由羅
主の留守中、ちゃんと美濃を守ってたんだね
ついでにあちこちの荘園を横領して支配下に置いて、主家である土岐家の勢力を上回るようになったけどね
イリス
イリス
由羅
由羅
うわあ……
 1469年(文明元年)には逆に近江へと侵攻。
 これは同じく西軍に属した六角高頼を助けるためであり、東軍であった京極政経及び守護代多賀高忠勢を1471年(文明3年)と1472年(文明4年)の二度に渡り、撃破したという。

 1473年(文明5年)には伊勢へ出兵。長野氏を援護。

 さらに1474年(文明6年)には越前へと入り、朝倉孝景と越前守護代であった甲斐敏光を調停し、和解させている。

由羅
由羅
あちこちで活躍していたんだね
そうだね。この頃には応仁の乱の方でも西軍方の諸将が和睦の動きをみせたんだけれど、妙椿が反対して実現しなかったともいわれているよ
イリス
イリス
 その後も乱は続いたが、1477年(文明9年)には厭戦気分から足利義視とその子である義材を連れて、土岐成頼が美濃へと帰国している。
これは妙椿の意向だとも言われているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
凄い影響力があったんだね
 この後も妙椿は、1478年(文明10年)に婿の織田敏広に加勢して尾張に出兵したり、書状によって飛騨国の姉小路氏と三木氏の抗争を調定したりとその存在力を周辺諸国に見せつけたという。

 そして1479年(文明11年2月)、可児郡明智で隠退。
 翌年の1480年(文明12年2月21日)に腫れ物を患って死去した。

死ぬ前に妙椿は主君であった成頼に、甥で養子であった斎藤妙純を重用するようにと遺言したことで、美濃守護代であった斎藤利藤と斎藤妙純の兄弟争いが勃発することになるんだよ
イリス
イリス

斎藤妙椿と美濃守護代

以前まで妙椿は美濃守護代であったとされてきたの
イリス
イリス
由羅
由羅
でも美濃守護代って、宗円から利永、利永から利藤に受け継がれていったんでしょ?
うん。つまりその斎藤利藤と妙椿が同一人物視されていたからなの
イリス
イリス
由羅
由羅
どうして?
『美濃国諸旧記』や『美濃明細記』、『古代氏族系譜集成』といった書物の中で、同一人物とされてきたからだよ
イリス
イリス
由羅
由羅
妙椿って確か実名は不明だったし、余計にごっちゃになった、ってところかな?
そうかもしれない。ただその後、蜷川親元の日記である『親元日記』や正徹の歌集「草根集」の中から、利藤の叔父であることがはっきりしたの。つまり、妙椿は守護代にはなっていない、ということだね
イリス
イリス
由羅
由羅
ということは、逆に利藤は妙椿の存在のせいで抑圧されていた可能性がある、ということかな?
守護代としての実権は無かったと思うよ。だからこそ妙椿の死後、兄弟での抗争に発展してしまったのだろうけどね
イリス
イリス

斎藤妙椿 画像

斎藤妙椿