飯富虎昌とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣。
武田信虎、武田信玄の二代に渡って仕えた重臣で、武田の精強軍団であった赤備えを率いた猛将だったが、義信事件に関わったとして責任を取り、自害して果てた。
生年 1504年(永正元年)
没年 1565年(永禄8年10月15日)
別名 甲山の猛虎
家紋 月星
主君 武田信虎⇒武田信玄
親 父:飯富道悦? 飯富源四郎?
兄弟 山県昌景
子 古屋昌時、左京亮(藤蔵)
飯富虎昌とは








武田信虎家臣時代
飯富氏
飯富虎昌は1504年(永正元年)に誕生したとされているが、生年は諸説あり、定かではない。
虎昌の飯富氏はもともと甲斐源氏の一族であり、源義家の四男である源義忠の子、飯富忠宗の系統であるとされている。
戦国時代の飯富氏には飯富道悦という人物がおり、武田信虎の家臣の一人だったが、1515年(永正12年)の大井信達との戦いにて戦死しており、この時一緒に討死した飯富源四郎なる人物が道悦の子ではないかとされ、その源四郎の子が飯富虎昌や山県昌景ではないかと考えられているものの、はっきりとはしていない。
1531年(享禄4年)、虎昌は今井信元や栗原兵庫と共に、主君であった信虎に対し、反旗を翻している。
しかしこれに敗れた虎昌は降伏し、罪を赦されて信虎に臣従した。




各地で戦功をあげる
その後の1536年(天文5年)になると、駿河の今川氏へと相模の北条氏綱が侵攻。
武田氏は今川氏の援軍として出陣し、虎昌は信虎に従って参戦し、北条軍を破ったとされている。
また1538年(天文7年)には、諏訪頼満と村上義清の連合軍を相手に戦い、兵に劣る戦況であったにも関わらず、これを撃破。虎昌自身も敵の首級を97も挙げる功をあげた。
1541年(天文10年)には、武田信玄による武田信虎の追放という事件が起こるが、虎昌は武田氏重臣であった板垣信方、甘利虎泰らと共に共謀して信玄を擁立し、信虎を駿河に追放したとされている。
武田信玄家臣時代
武田信玄が当主となると、虎昌は重臣の一人としてこれを支えた。
虎昌は主に軍事面において活躍し、武田軍団の中核を担ったとされている。
1553年(天文22年)には、上杉謙信や村上義清率いる8,000の軍勢に、守備を任されていた内山城を包囲されるも、虎昌は800の手勢にて撃退。
1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いでは、上杉謙信が陣を張った妻女山攻撃の別働隊の大将を務めるなど、大いに活躍する。
一方で信玄の嫡男・武田義信の後見人を任されるなど信頼され、宿老であった板垣信方や甘利虎泰が死した後は、武田氏随一の重臣として武田氏を支えることになった。
義信事件
1565年(永禄8年)、義信事件が発生。
これはそれまで同盟国であった今川氏への方針を巡り、武田信玄と嫡男・義信の間で対立し、義信の後見人であった虎昌は義信を担いで信玄に対する謀反を画策したとされて捕らえられ、その責任をとる形で自害した。享年62。
この時に虎昌の謀反を密告したのは、虎昌の弟であった山県昌景であったとされている。
これにより飯富氏は断絶。
弟の昌景は山県氏の名跡を継いでいたため、虎昌の家臣団は昌景が引き継ぐことになった。
この義信事件においては諸説あり、虎昌はわざと謀反の計画が弟・昌景に伝わるようにし、義信をかばうために自らが首謀者となって責任をとった、とも言われている一方、重臣として影響力の強かった虎昌を信玄が排斥しよとしたため、とも考えられている。




飯富虎昌の人物像
虎昌は武田家臣団の中でも重臣中の重臣であり、また戦場における勇猛果敢振りは「甲山の猛虎」と渾名されて敵だけでなく、味方からも恐れられたといわれており、武田二十四将の一人にも数えられている。
虎昌率いる手勢は印象的な赤い軍装に統一されて、武田の赤備えとして武田軍の代名詞ともなる強さを誇った。
この赤備えは虎昌切腹後、弟の山県昌景に引き継がれ、武田氏滅亡後は井伊直政や真田信繁(真田幸村)らが赤備えを施し、受け継いでいる。
飯富虎昌画像
