小畠虎盛とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣。
武田五名臣(原美濃守・小幡山城守・横田備中守・多田淡路守・山本勘助)の一人としても知られている。
小幡姓ではなく小畠姓が正しく、ただ子の昌盛は小幡姓(上野国小幡氏を名乗っており、これはのちに主君であった武田信玄に許されて名乗ったものといわれている。
生年 1491年(文明13年)
没年 1561年(永禄4年6月2日)
別名 鬼虎
家紋 五枚根笹
主君 武田信虎⇒武田信玄
親 父:小畠日浄
兄弟 虎盛 惣七郎 弥惣右衛門 貞長(光盛)
子 小幡昌盛
小畠虎盛とは














来歴
1491年(文明13年)に、小畠日浄の子として誕生。
小畠氏は遠江国出身であり、虎盛の父である小畠日浄が甲斐国へと赴き、武田信虎に仕官したのに従って、虎盛もまた甲斐へと移り住んだという。
日浄は足軽大将として取り立てられ、その後家督を継いだ虎盛もまた、信虎麾下の足軽大将として活躍し、甲斐国の統一戦や今川氏、後北条氏との戦いで武功を挙げたとされている。
1521年(大永元年)には今川氏の福島正成が甲斐国へと侵攻し、これを原虎胤と共に先鋒として迎撃し、最前線にて戦った。
これらの功から信虎から一字をもらい、虎盛と名乗り、その武勇から鬼虎と呼ばれたという。




同じく「鬼」の名を称せられた鬼美濃こと原虎胤とは、のちに武田信玄の時代において、同じ鬼同士だからと「鬼の子には鬼の娘が相応しい」と評せられ、虎盛の子の小幡昌盛は原虎胤の娘を正室として迎えることになったともいわれている。






1541年(天文10年)になると、武田信玄は父・信虎を追放し、その家督を継承した。
虎盛は信玄に従い、活躍。
1551年(天文20年)に信玄が剃髪するとこれに従い、原虎胤や真田幸隆らと共に剃髪して日意と号したとされている。
その後永禄年間には海津城に高坂昌信の副将として入城し、対上杉氏最前戦にて活躍した。
そして1561年(永禄4年)に71歳にて病死。
その生涯は合戦に明け暮れ、36回にも及んだとされ、ためにもらった感状は36枚、受けた傷は41ヶ所に及んだ歴戦の勇将であったという。


最期に遺した「よくみのほどをしれ」との遺言は、有名な言葉として知られている。