小幡景憲 ~甲陽軍鑑の編者にして、甲州流軍学の創始者

小幡景憲 ~甲陽軍鑑の編者にして、甲州流軍学の創始者

五枚根笹 小幡景憲とは安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり軍学者。小幡昌盛の三男。
 甲陽軍鑑の編者として著名である。

 小幡景憲 (おばた かげのり)
 生年  1572年(元亀3年)
 没年  1663年4月3日(寛文3年2月25日)
 別名  通称:孫七郎、勘兵衛
     仮名:熊千代
 家紋  五枚根笹
 主君  徳川秀忠
 親   父:小幡昌盛
 子   養子:景松

小幡景憲とは

由羅
由羅
父親の昌盛までは武田家臣だったけれど、景憲は徳川家臣なんだよね
生まれたのが1572年(元亀3年)だから、武田家が滅亡する1582年(天正10年)ではまだ10歳程度だもの。もしかするともう武田家に仕えていたかもしれないけれどね
イリス
イリス
由羅
由羅
だよね。それで景憲って、武将というよりは軍学者として有名で、あの甲陽軍鑑の編者としても知られているものね?
そう。甲陽軍鑑は甲斐武田氏を語る上で外せない史料だよ
イリス
イリス

来歴

 小幡景憲は1572年(元亀3年)、甲斐武田氏の家臣であった小幡昌盛の三男として誕生する。

 父であった小幡昌盛は信濃海津城主・高坂昌信(春日虎綱)を補佐して在城し、後に武田信玄の旗本に転じたことで、海津在番の後任は叔父の小幡光盛が務めたとされている。

 父の昌盛は1582年(天正10年)に死去し、叔父の光盛は武田氏滅亡後は越後上杉氏に臣従した。

 武田家の遺領は天正壬午の乱を経て、徳川家康がこれを確保し、武田家遺臣の多くは徳川氏に仕えることになった。
 景憲もまた徳川氏に仕えたという。

 しかし1595年(文禄4年)、景憲は主君であった徳川秀忠のもとを出奔し、諸国を流浪した。

由羅
由羅
時々いるよね……いきなり出奔して流浪したがるひとって
 その後1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いでは、徳川氏の家臣・井伊直政に属して戦功を挙げている。
由羅
由羅
あ、ちゃんと戻ってきたんだ。関ヶ原の戦いっていう一大イベントにはちゃっかり参加しているんだね
 しかし1614年(慶長19年)の大坂の陣では豊臣氏に与することになる。
由羅
由羅
今度は豊臣方かあ……なんだかふらふらしているよね
でもこの時、徳川に内通しているから
イリス
イリス
由羅
由羅
え、そうなの?
うん。江戸幕府京都所司代の板倉勝重に連絡をとっていたらしいよ
イリス
イリス
由羅
由羅
うわあ……。ちゃっかりしているというか、何というか
 戦後は再び徳川氏に仕え、1500石を領したという。

甲州流軍学

 武将としての一方で、景憲は甲州流軍学の創始者として名高い。
 数多くの者に教授しており、特に北条氏長・近藤正純・富永勝由・梶定良らはその師弟として知られ、小幡門四哲同学とも呼ばれているという。

ちなみに軍学だけじゃなくて、個人的武勇にも優れていたようだよ。徳川将軍家指南役だった小野忠明から皆伝を受けていて、剣術は達者だったらしいから
イリス
イリス
由羅
由羅
ということは、もしもう少し早く生まれていて、世が戦国時代ならとても活躍した人物だったのかもしれないね。処世も何か上手そうだし

甲陽軍鑑

 江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』の編者としても著名。

由羅
由羅
甲陽軍鑑ってよく聞くけれど、景憲が書いたの?
ちょっと違うかな。甲陽軍鑑の成立は少し複雑なんだけど……
イリス
イリス
 甲陽軍鑑は武田家臣であった高坂昌信が武田家の行く末を危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎や春日家臣大蔵彦十郎らが虎綱の口述を書き継いだという体裁になっている。

 昌信の死後は春日惣次郎が執筆を引き継ぎ、死去する時まで書き続けたという。

 これを昌信に仕えていた小幡光盛の実子、もしくは本人ではないかとされる「小幡下野守」なる人物が入手して原本が成立。
 さらにこれを光盛の甥であった小幡昌盛の子景憲が手に入れ、手を加えたものが小幡景憲写本本として現存している。

 景憲はこれを甲州流軍学の教典とし、江戸時代には出版されて広く流布し、講談や歌舞伎をはじめ、明治以後の演劇や小説・映画・テレビドラマ・漫画等、現代に至るまで武田家に纏わる創作物に対して多大な影響を与えたという。

由羅
由羅
甲陽軍鑑には武田家臣だった者の多くが関わっていたんだね