長坂光堅とは戦国時代から安土桃山時代の武将であり、甲斐武田氏に仕えた譜代家老衆の家臣。
小笠原氏庶流であり、長坂釣閑斎(ちょうかんさい)という出家名でも知られている。
生年 1513年(永正10年)
没年 1582年(1582年4月3日)
別名 虎房 頼広 国清 釣閑斎
主君 武田信虎⇒武田信玄⇒武田勝頼
親 父:長坂昌房(国清)
子 昌国 今福昌常 英信
長坂光堅とは








諏訪郡代として
1513年(永正10年)に、長坂昌房の子として誕生。
これより遡ること6年前、1570年(永正4年)に、主家であった甲斐武田氏では武田信虎が当主となって、甲斐国の統一を積極的に進めていた。
光堅の名が史料に見られるようになるのは、信虎から武田信玄へと代替わりした後のことで、信玄が行った信濃侵攻の頃になる。
諏訪氏を滅ぼし、代わりに諏訪郡代となった板垣信方を補佐する上原在城衆となった光堅は、上原城へと入城。
板垣信方が1548年(天文17年)に起きた上田原の戦いにおいて戦死すると、その後任として諏訪郡代となり、翌年の1549年(天文18年)には高島城を諏訪支配の新たな拠点とし、高島城へ入ったとされている。
その後、武田氏は北信濃を巡って越後の上杉氏と対立するようになり、1553年(天文22年)には跡部信秋らと共に、牧之島の国衆・香坂氏の元に派遣され、備えていたという。
同じ年には武田家臣である真田幸隆の娘と、光堅の子・昌国との縁組が行われた。
1557年(弘治3年)に勃発した第3次川中島の戦いにおいては、上杉謙信の侵攻に備えた北信濃の探索を命じられていたようで、また同年には奉行人としての活動も見られている。
1559年(永禄2年)、主君・武田晴信(信玄)が出家し、光堅もこれに倣ったようで出家し、釣閑斎と称した。




長篠の戦い

『長篠合戦図屏風』
1573年(元亀4年)、武田信玄が病死。
信玄の死去後、後を継いだ武田勝頼は武田信豊、跡部勝資らと共に光堅を重用したとされている。
そして1575年(天正3年)に、織田・徳川連合軍を相手にした長篠の戦いが勃発。
信玄時代からの重臣であった山県昌景、内藤昌豊、馬場信春らは、敵の兵力が予想以上に大きかったことから撤退を進言。
しかし光堅はそれらに反して攻撃を勝頼に進言し、これを受けた勝頼は戦闘を開始した。
この長篠の戦いは武田軍の惨敗に終わり、武田家臣の多くも討死したとされている。




武田氏衰退の要因ともなった長篠の戦いであるが、その惨敗の原因を作った進言を行った人物として、長坂光堅の名が挙げられることになる。
これは『甲陽軍鑑』の記述によるものであるが、この史料とは別に長篠の戦いの前日に、「長閑斎」なる人物に宛てた勝頼からの書状が存在し、この長閑斎は武田氏の領国のどこかの城を守備していたようで、長閑斎が釣閑斎と同一人物であるのならば、光堅は長篠の戦いに参陣していないことになる。




ただこの問題について、この「長閑斎」は長坂釣閑斎光堅ではなく、今福長閑斎友清の可能性があるのではないか、との可能性も論じられている。
もしその通りであるのならば、やはり光堅は『甲陽軍鑑』にあるように長篠の戦いに参戦して、その敗戦の原因を作った人物になるのかも知れない。


資金横領の件
1578年(天正6年)に上杉謙信が死去し、御館の乱を経て武田勝頼は後を継いだ上杉景勝と同盟。いわゆる甲越同盟を締結。
この際に武田氏は上杉氏より資金援助を受けたが、『甲陽軍鑑』によると、光堅はその金を横領していたという記述が残されている。
これを受けて、春日虎綱が勝頼へと光堅を追放するように進言。
しかし勝頼は光堅の甘言に惑わされており、聞き入れなかったとされている。












武田氏滅亡

『天目山勝頼討死図』
1582年(天正10年)、織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始。
武田勝頼は居城であった新府城を放棄して小山田信茂を頼るも裏切られ、天目山にて自害して甲斐武田氏は滅亡した。
光堅はこの甲州征伐に際して甲府に残留しており、織田氏によって捕縛されて処刑されたと『甲乱記』にはある。
また『甲陽軍鑑』によれば一条信龍の屋敷で処刑されたとされている。
一方で、『信長公記』によれば光堅は勝頼に従って戦い、討死したとある。享年70。



