毛利氏とは日本の武家。
鎌倉幕府政所別当大江広元の四男・毛利季光を祖とする一族である。
相模国愛甲郡毛利庄を本貫としたことで、毛利姓を名乗るようになった。
毛利氏(もうりし) |
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本姓 | 大江氏季光流 |
家祖 | 大江季光 |
家紋 | 一文字三星(長門星) |
出身地 | 相模国愛甲郡毛利莊 |
著名人物 | 毛利元就 毛利輝元 毛利敬親 |
支流 | 徳山毛利家(武家) 長府毛利家(武家) 清末毛利家(武家) 安芸坂氏(武家) 越後北条氏(武家) |
毛利氏とは
元就が一代で中国を平定し、九州の一部にまでその版図は及んだのよ
そうね。毛利といえば中国、というイメージが定着しているけれど、元々は中国に根を張っていたわけではないのよ
そうなのよ。冒頭でも書いた通り、そもそも毛利の姓を名乗ったのは相模国由来であるし、その後の本拠は越後国にあったのだから
どっちも東だよねえ……。それがどうして中国に来たの?
鎌倉時代末期に安芸国高田郡吉田荘に分家を立てたことで、安芸国に縁ができたようね。しばらくは飛び地として間接統治をしていたようだけど、南北朝時代に入って下向し、吉田郡山城において直接統治するようになったの
吉田郡山城っていえば、毛利氏の本拠として有名だよね
こうして室町時代には安芸国の有力な国人領主となった毛利氏は、徐々に力を蓄えて、毛利元就という当主が生まれたことで、一気にその頭角を現すことになるわけね
なるほど……。じゃあ、越後国にいた毛利氏はどうなったの?
ちゃんといたわよ? みんなの好きな戦国時代にも、それなりに名の知れた武将として、その子孫が出てくるし
越後北条氏といえばわかるかしら。上杉家臣として、
北条高広とかが出て来るでしょ? あれよ
変えたのよ。越後国において本拠としていたのは刈羽郡佐橋庄南条というところで、だから当初は南条と名乗ったようだけど、のちに北条という所に拠点を移転したことから、北条と名乗ったようね。ちなみに安田に移転したこの氏族は安田姓を名乗り、御館の乱などで活躍する上杉家臣・安田顕元などはその系統よ
北条高広と
安田顕元って、実は同じご先祖様だったんだ……
戦国時代にはたくさんの武将がいるけれど、遡っていくと意外な共通点があったりして、面白いものね
鎌倉時代~室町時代まで
毛利氏の家祖である毛利季光は大江広元の四男であり、相模国毛利荘を相続したことで毛利姓を名乗ったとされている。
鎌倉時代では名の知れた有名人の一人よ。元々は下級貴族に過ぎなかったのだけど、鎌倉に降って源頼朝の側近になり、鎌倉幕府の政所初代別当を務めて、幕府創設に貢献した人物よ
1247年(宝治元年)、鎌倉幕府の内乱である宝治合戦が勃発する。
毛利季光は北条時頼の義父であったのであるが、三浦泰村と結んで北条氏に反旗を翻し、敗北して息子の広光・光正・泰光・師雄らと共に自刃し、一族の大半は滅亡した。
いきなりピンチだね。でもどうして身内じゃなく、三浦氏についたの?
三浦氏も身内だったのよ。正室の実家だったから。そして娘は北条時頼正室。いい感じで板挟みね?
妻に「兄の泰村を見捨てることは、武士のすることではない」とか言われて三浦氏についたようだけど、武士も大変ね
この宝治合戦に関わらなかった四男・経光は越後におり、この系統が残った。
経光の四男である毛利時親は安芸国吉田荘を譲られ、京都の六波羅探題の評定衆を勤めていたとされる。
1333年(元弘3年)には元弘の乱が勃発し、鎌倉幕府は滅亡。
時親はこれに参加せず、のちの建武の新政からも距離を置いたことで、領土を没収されている。
時親は曾孫の元春を北朝方の足利尊氏に味方させるなど尽力して、どうにか安芸での毛利氏の勢力維持を図ったそうよ
南北朝時代には毛利元春が今川貞世の指揮下に入り、懐良親王の征西府討伐に従軍し、活躍したとされる。
戦国時代
こうして安芸国に国人として土着した毛利氏は次第に力をつけ、安芸における屈指の勢力になる。
しかし山名氏や大内氏という大勢力に挟まれていたこともあり、その勢力は一時衰えたという。
そして毛利元就の代になると、敵対勢力や一族の反乱を収めつつ、安芸国の吉川氏に次男である元春を、小早川氏に三男の隆景を養子に入れることでこれを乗っ取り、勢力を拡大。
1555年(弘治元年)には厳島の戦いで大内氏を乗っ取っていた陶晴賢を破り、1557年(弘治3年)には大内義長お攻め滅ぼして、その領土を得た。
さらには北九州北部にも侵入し、大友氏と争っている。
1566年(永禄3年)には尼子氏を滅ぼし、安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見を領有する西国一の大名となった。
その後、西国侵攻を図る織田氏と争うことになるが、織田信長が本能寺で横死したことにより和睦することになる。
これだけの勢力を築いた毛利氏と織田氏が全面戦争に突入していたらどうなっていたかは、興味あるよね
豊臣政権下において、毛利輝元は五大老に就任。
秀吉死後は徳川家康に対抗して石田三成に接近し、関ヶ原の戦いにおいては西軍総大将となるも敗北し、112万石から周防国・長門国の二ヶ国29万8千石に減封される。
江戸末期には長州征討などの憂き目にも遭うも、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎らの人材を輩出し、明治維新を成就させた。
家康も、まさか最後は毛利にしてやられるとは思わなかっただろうね
改易しておけば良かったと、草葉の陰で思っていたかもね
毛利の読み方
正解。でも中世の間は『もり』と読まれていたそうよ。それが後に『もうり』と読まれるようになったそうね
ほら、大坂の陣で有名な毛利勝永なんかはもともと森姓で、『もり』と同じ読みだから秀吉に命じられて毛利姓に改姓したって話があるでしょ? その逸話からもわかるというものよ
一文字三星(長門星)

【一文字三星】以前やっていた大河ドラマでも、オープニングの一番最初に出ていたから、覚えているひとも多いんじゃないかしら
これを見ると、家紋って植物由来のものだけじゃないってわかるよね
確かに植物を象った家紋は多いけれど、それ以外にもたくさんあるわよ。ちなみにこの家紋はいかにも毛利氏のもの、って感じではあるけれど、遡れば大江氏によって使用されていたものだから
毛利氏は大江氏から分かれたから、それで使用しているってことだよね
その通り。この家紋はかなり意味が詰め込まれていて、まず一文字は『かたきなし』という意味があるのよ
星、と言って欲しいわね。この三星は将軍星を現しているわ。オリオンのベルトのことよ
その通り。そしてこれら全てを合わせた形は『一品』を表してもいるの。これは律令制における最高位のことね
そういうわけだから、この家紋は人気もあったことでしょうね。ちなみに長門三星とも呼ばれているわ